堀秀政

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生没年

  • 1553~1590

    出生
    1553年(天文22年)

    死没
    1590年6月28日(天正18年5月27日)

享年 38

名前

  • 堀 菊千代(ほり きくちよ、幼名)
  • 堀 久太郎(ほり きゅうたろう、通称)
  • 堀 秀政 (ほり ひでまさ)

堀秀政 人物解説

  • 美濃斎藤氏の家臣である堀氏の出身
  • 織田信長の小姓となり、後に側近として活躍した
  • 本能寺の変後は、羽柴秀吉に仕えた
  • 1584年、長久手の戦いでは追撃してきた徳川軍を撃退した
  • 織田氏、豊臣氏に仕えた
  • 1590年の小田原征伐に参陣したが急死した

父母血縁

父母 祖父母 曾祖父母
堀 秀政 堀 秀重 堀 掃部大夫  _
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年表( 堀秀政 略歴 )

所在 出来事
1553 美濃 美濃国の斎藤道三の家臣であった堀秀重(ほり ひでしげ)の嫡男として出生する
1565 美濃 織田信長の小姓として取り立てられる
1577 2-3 紀伊 紀州雑賀攻め
(きしゅうさいかぜめ)

信長の命により雑賀攻めが行われたが和睦となる
秀政は山手側の先鋒を務めた

1581 9 伊賀 第二次天正伊賀の乱
(きしゅうさいかぜめ)

織田軍が織田信雄を総大将とし、5万の兵で伊賀国に侵攻する
秀政は部隊を率い、多羅尾口(たらおぐち)から攻め込んだ

1582 3 信濃甲斐 甲州征伐
(こうしゅうせいばつ)

織田信忠が率いる織田軍が信濃甲斐に侵攻し、武田家を滅亡させる
秀政は織田信長の本隊に属し出陣した

1582 6 本能寺の変
(ほんのうじのへん)

主君の織田 信長明智光秀 の謀反により本能寺にて自害
信長の嫡男である織田信忠も攻められ、二条新御所にて自害
秀政は備中国にて羽柴秀吉の軍監を務めていた

1582 7 山城 山崎の戦い
(やまざきのたたかい)

羽柴秀吉が中国攻めより引き返し、明智光秀と戦い勝利する
秀政は主力部隊の後詰を務めた
1582 7 近江 明智方の坂本城を包囲し落城させる
1582 7 尾張 清州会議
(きよすかいぎ)

織田信忠の嫡男 三法師(後の織田秀信)が織田家家督を継ぐ
羽柴秀吉が織田家家臣の実質的な筆頭となる
秀政は三法師の傅役となる
1583 4 近江 賤ヶ岳の戦い
(しずがたけのたたかい)

羽柴秀吉が織田家実権を争い柴田勝家と戦い勝利する
秀政は羽柴秀吉方の武将として参戦し、東野山城(とうのやまじょう)に布陣した
1583 近江 佐和山城の城主となる
1584 3~11 尾張美濃 小牧長久手の戦い
(こまきながくてのたたかい)

羽柴秀吉が織田信雄、徳川家康と戦うが池田恒興、森長可らを討ち取られる
秀政は桧ヶ根(ひのきがね)の戦いにおいて徳川軍を撃退する
秀吉は信雄と単独で講和し家康とも講和する

1585 9 越前 越前国の北ノ庄へ転封となる
1586-1587 九州 豊臣秀吉の九州平定

九州北部まで侵攻していた島津氏を討伐するために豊臣秀吉が出兵した
秀政は、秀吉本隊(肥後方面)の八番隊を率いた

1590 2-7 相模 小田原征伐
(おだわらせいばつ)

北条氏討伐のための豊臣秀吉軍が出陣する
秀政らも参陣する
陣中にて病死 享年37

※年月は西暦 

主君

  • 織田 信長(おだ のぶなが)
    1534~1582
  • 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)1595~
    1585年に関白宣下を受け、1590年に全国統一した。

著名子孫

    • 堀 秀治(ほり ひではる)
      1576 ~ 1606 堀秀政の嫡男。越後福嶋藩の初代藩主。

    一門

    • 堀 直政(ほり なおまさ)
      1547 ~ 1608 堀秀政の従兄弟であり、織田家家臣時代より秀政を補佐した。
    • 多賀 秀種(たが ひでたね)
      1565 ~ 1616 堀秀政の実弟であり、秀政に仕えた。
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