生没年
- 1567?~1615
1567?年(永禄10?年)出生
1615年6月3日(慶長20年5月7日)死没
享年 49
名前
- 弁丸 (べんまる、幼名)
- 真田 源次郎(さなだ げんじろう)
- 真田 信繁 (さなだ のぶしげ)
- ※真田 幸村 (さなだ ゆきむら)
※江戸時代の軍記物に登場した名称
真田信繁(幸村) 人物解説
- 信濃小県郡(ちいさがたぐん)の有力豪族である海野氏支流の真田氏出身
- 武田信玄、武田勝頼の家臣であった真田昌幸(さなだ まさゆき)の次男
- 1585年、真田家は豊臣秀吉に臣従したため、人質として大坂に移った
- 1600年、第二次上田合戦では、父兄とともに徳川秀忠率いる徳川軍を食い止め関ケ原の戦いを遅参させた
- 関ケ原の戦い後は、西軍に属した為、父の真田昌幸と共に九度山(紀伊国)へ配流となった
- 1614年、大坂冬の陣では大阪城の南東側に真田丸を築き、徳川勢を撃退した
- 1615年、大坂夏の陣における天王寺の戦いでは、徳川軍本陣に突撃し徳川家康を追い詰めた
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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真田信繁 (幸村) |
真田昌幸 | 真田幸隆 (幸綱) |
真田頼昌? |
海野棟綱娘? | |||
恭雲院 (河原隆正妹) |
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山手殿 (寒松院) |
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年表( 真田信繁(幸村) 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1567? | 甲斐 | 甲斐の武田信玄の家臣であった武藤喜兵衛(真田昌幸)の次男として出生する | |
1567 | 信濃 | 伯父の真田信綱が真田家の家督を継ぐ | |
1573 | 4 | 信濃 | 主君の武田信玄が西上作戦の途上に持病を悪化させ、甲斐へ撤退中に死去する |
1574 | 6 | 信濃 | 祖父の真田幸隆(幸綱)が戸石城で病死する |
1575 | 6 | 三河 | 長篠の戦い (ながしののたたかい) 父の武藤喜兵衛(真田昌幸)が武田勝頼の旗本衆として参戦していた武田軍が織田徳川連合軍に敗退し壊滅する |
1575 | 甲斐 | 当主の真田信綱が戦死したため、真田家の家督を父の真田昌幸が継ぐ | |
1582 | 4 | 甲斐信濃 | 武田家の滅亡
織田信長、徳川家康の連合軍により、甲州征伐が行われる |
1582 | 4 | 真田昌幸は織田信長に恭順し旧領を安堵され、織田氏の重臣である滝川一益(たきがわ かずます)の与力となる 真田信繁は人質として滝川一益へ差し出された |
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1582 | 6 | 京 | 本能寺の変 (ほんのうじのへん) 織田信長が家臣の明智光秀に謀反を起こされ本能寺にて自害する |
1582 | 7 | 武蔵 | 神流川の戦い (かんながわのたたかい) 父の真田昌幸が参陣した織田方の滝川一益軍と北条軍が戦う |
1582 | 信濃 | 真田氏は状況により、上杉、北条、徳川へ従属する | |
1585 | 8 | 信濃 | 徳川氏と手切れをし、真田信繁は上杉氏へ人質として送られる |
1585 | 9 | 信濃 | 第一次上田合戦 (だいいちじうえだかっせん) 父の真田昌幸、兄の真田信幸が籠城し、鳥居元忠率いる徳川軍を撃退する |
1585 | 大坂 | 真田昌幸は豊臣秀吉に臣従し、信繁は人質として大坂に送られた | |
1589頃 | 兄の真田信幸が徳川家康の重臣である本多忠勝の娘 小松姫と婚姻する | ||
1592~1593 | 肥前 | 文禄の役 (ぶんろくのえき) 父や兄と共に肥前の名護屋城に在陣する |
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1594 | 4 | 大坂 | 従五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任され、豊臣秀吉より豊臣姓を下賜される |
1598 | 9 | 大坂 | 豊臣秀吉が伏見城にて死去する |
1600 | 会津征伐 (あいづせいばつ) 徳川家康が出仕を拒否した上杉景勝の討伐軍を起こす |
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1600 | 下野 | 父の昌幸が石田三成の家康弾劾の書状を受け取る 真田昌幸と信繁(幸村)は西軍に付き、嫡男の信幸は東軍に付く |
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1600 | 10 | 信濃 | 第二次上田合戦 (だいにじうえだかっせん) 徳川秀忠が率いる徳川軍を上田城で籠城し迎え撃ち、関ケ原本戦に遅参させる |
1600 | 信濃 | 関ケ原本戦において西軍が敗退した後、しばらく籠城を続けるが降伏を受け入れ開城する 兄の真田信幸と本多忠勝の助命嘆願により死罪とはならず、高野山への配流となる |
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1601 | 1 | 信濃 ↓ 紀伊 |
真田信繁は父の昌幸とともに配流先の高野山に向かう 配流先が高野山北の九度山に代わる |
1611 | 7 | 紀伊 | 配流先の九度山で父の真田昌幸が病死する |
1614 | 紀伊 | 豊臣方の使者が黄金を持って訪れる 嫡男の真田大助(幸昌)とともに九度山を脱出し大阪城に入る |
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1614 | 12 | 摂津 | 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん) 徳川家康が20万の軍勢を率いて豊臣秀頼の籠城する大阪城を包囲し攻撃する |
1615 | 6 | 摂津 | 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん) 豊臣方の再戦の準備を口実に徳川家康が再度出兵する |
1615 | 6 | 摂津 | 天王寺岡山の戦い (てんのうじおかやまのたたかい) 豊臣方が大阪城南方の平野部で決戦を挑む |
※年月は西暦
主君
- 武田 勝頼(たけだ かつより)~1582
武田信玄の四男。信玄死去後、武田氏の当主となるが、1582年の織田信長による甲州征伐により自害し、甲斐武田氏は滅亡する。 - 真田 昌幸(さなだ まさゆき)
信繁(幸村)の父。武田家滅亡後は、豊臣家に臣従し独立大名となるが、関ケ原の戦いにおいて西軍に属したため、改易となった。 - 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)~1598
関白、1590年に全国統一した。 - 豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)1598~
1593年出生、豊臣秀吉の子。
著名子孫
- 子
- 真田 幸昌(さなだ ゆきまさ、大助)
嫡男、大坂夏の陣において豊臣秀頼に殉じて自害した。 - 真田 守信(さなだ もりのぶ)
次男、大坂夏の陣後に姉が側室となった仙台藩伊達家家臣の片倉家に引き取られた。後に仙台藩士となった。 - 三好 幸信(みよし ゆきのぶ)
三男、母は豊臣秀次の娘であり信繁の没後に出生した。後に姉の嫁ぎ先となった出羽亀田藩士となった。
- 真田 幸昌(さなだ ゆきまさ、大助)
一門
- 真田 信幸(さなだ のぶゆき、信之)
兄、信濃松代藩の初代藩主。妻は本多忠勝の娘 小松姫 関ケ原の戦いでは東軍方となった。 - 真田 信尹(さなだ のぶただ)
真田幸隆の四男、信繁の叔父。武田家滅亡後は上杉家、北条家、蒲生家、徳川家に仕えた。
家臣
- 高梨 内記(たかなし ないき)
娘は信繁の側室。大坂夏の陣において信繁に従い戦った。 - 青柳 清庵(あおやぎ せいあん)
大坂夏の陣において信繁に従い戦った。