生没年
- 1508 ~ 1577
1508年(永正5年) 出生
1577年11月19日(天正5年10月10日)死没
享年 68
名前
- 松永 久秀(まつなが ひさひで)
松永久秀 人物解説
- 出身は諸説あり(摂津国五百住の土豪出身説など)
- 畿内全域を支配し三好政権を樹立した三好長慶(みよし ながよし)に仕え、重臣として活躍
- 嫡男の松永久通(まつなが ひさみち)らが、室町幕府13代将軍である足利義輝(あしかが よしてる)を暗殺する(永禄の変)
- 織田信長(おだ のぶなが)に恭順するが謀反を起こす
- 斎藤道三(さいとう どうさん)、宇喜多直家(うきた なおいえ)らと並んで戦国の三梟雄(きゅうゆう)といわれる
※梟雄とは、残忍で勇猛な人物のこと
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
---|---|---|---|
松永久秀 | ? | _ | |
_ | |||
_ | _ | ||
_ | |||
_ | _ | _ | |
_ | |||
_ | _ | ||
_ |
年表( 松永久秀 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
---|---|---|---|
1508 | 出生 摂津国五百住(よすみ)の土豪、阿波国、山城国西岡などの出身説がある |
||
1533頃 | 摂津 | 室町幕府管領となる細川晴元の配下であった三好長慶(みよし ながよし)に仕え始める | |
摂津 | 三好長慶の右筆(ゆうしつ、書記)を務める | ||
摂津 | 三好家の家宰となり、弾正忠(だんじょうちゅう)に任官 | ||
1551 | 8 | 京 | 相国寺の戦い (しょうこくじのたたかい) 三好長慶と対立していた幕府方の細川晴元の兵を敗走させる |
1558 | 京 | 三好長慶と和睦した足利義輝が帰京する | |
1560 | 大和 | 大和に進出し、筒井順慶や興福寺勢力を破り制圧する | |
1560 | 京 | 三好長慶の嫡男である三好義興(よしおき)と共に幕府の御供衆(おともしゅう)に任じられる | |
1560 | 京 | 弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任官 | |
1560~1564 | 大和 | 大和を支配する拠点として、多聞山城を築城する | |
1563 | 9 | 摂津 | 芥川山城にて、三好義興が死去 |
1564 | 7 | 摂津 | 飯盛山城にて、主君の三好長慶が病死 長慶の養子である三好義継(よしつぐ)が三好家の家督を継ぐ |
1565 | 6 | 京 | 永禄の変 (えいろくのへん) 三好義継、嫡男の松永久通(まつなが ひさみち)、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)らが二条御所武衛陣(ぶえいじん)を襲撃し、室町幕府13代将軍である足利義輝を暗殺する |
1565 | 三好三人衆と対立し、三好家の内紛状態となる | ||
1567 | 5~11 | 大和 | 東大寺大仏殿の戦い (とうだいじだいぶつでんのたたかい) 三好三人衆、筒井順慶軍と東大寺周辺で戦い勝利する 東大寺大仏殿が焼失する |
1568 | 7 | 大和 | 支配下の信貴山城が三好三人衆、筒井順慶軍に攻められ落城する |
1568 | 9 | 京 | 上洛してきた織田信長に従属する |
1568 | 9 | 大和 | 織田信長の助力受け、信貴山城を奪還する |
1572 | 大和 | 織田信長に謀反を起こす 足利義昭が主導する信長包囲網に加わる |
|
1573 | 大和 | 織田軍に多聞山城を攻められ、降伏する | |
1577 | 10 | 大和 | 織田軍として本願寺攻めに加わっていたが離脱し、信貴山城に籠城する |
1577 | 11 | 大和 | 信貴山城の戦い (しぎさんじょうのたたかい) 織田信忠(信長の嫡男)の軍に攻められ籠城するが自害 享年68 |
※年月は西暦
主君
- 三好 長慶(みよし ながよし)1533?~
主家であった管領の細川氏より実権を奪い、三好政権を樹立した - 三好 義継 (みよし よしつぐ)1564~
三好長慶の弟である十河一存(そごう かずまさ)の子 長慶の嫡男である三好義興(みよし よしおき)が病死後、長慶の養子となる。1564年、長慶が死去後、三好本家の家督を継ぐが、1565年に二条御所を襲撃し、将軍の足利義輝を暗殺した(永禄の変)。1573年、河内国若江城にて織田信長に敗れ、自害した。 - 織田 信長(おだ のぶなが)1568~
著名子孫
- 松永 久通(まつなが ひさみち)
嫡男、1565年に三好三人衆と共に永禄の変を起こし、室町幕府13代将軍である足利義輝を暗殺する
一門衆
- 松永 長頼(まつなが ながより)
弟、三好長慶の家臣として丹波支配に尽力するが、1565年に赤井直正に敗れ、討死