生没年
- 1540~1591
出生
1540年4月8日(天文9年3月2日)
死没
1591年2月15日(天正19年1月22日)
享年 52
名前
- 木下 小竹(きのした こちく、幼名)
- 木下 小一郎(きのした こいちろう、通称)
- 木下 長秀(きのした ながひで)
- 羽柴 長秀(はしば ながひで)1573~
- 羽柴 秀長(はしば ひでなが)
- 豊臣 秀長(とよとみ ひでなが)1586~
豊臣秀長 人物解説
- 豊臣秀吉の弟(3才下)であり、同父弟、異父弟と諸説有り
- 豊臣秀吉を補佐し、天下統一の達成に貢献する
- 1587年、権大納言に任官し大和大納言と称される
- 豊臣秀吉に先立ち、1591年に病死した(享年52)
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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豊臣秀長 | 木下弥右衛門? 竹阿弥? |
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仲(天瑞院) | _ | _ | |
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年表( 豊臣秀長 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1540 | 4 | 尾張 | 尾張国愛知郡中村にて出生する |
1554頃 | 尾張 | 兄の木下藤吉郎(秀吉)が織田信長に仕える | |
1566 | 美濃 | 兄の木下藤吉郎(秀吉)が墨俣城を築城する | |
1570 | 越前 | 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきくち) 金ヶ崎城から撤退する際、兄の木下藤吉郎(秀吉)が明智光秀らと殿を努める |
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1570 | 7 | 近江 | 姉川の戦い (あねがわのたたかい) 織田徳川連合軍が浅井朝倉連合軍に勝利する |
1573 | 9 | 越前 | 一乗谷城の戦い (いちじょうだにじょうのたたかい) 織田信長が一乗谷城を攻略し朝倉氏を滅ぼす |
1573 | 9 | 近江 | 小谷城の戦い (おだにじょうのたたかい) 織田信長が小谷城を攻略し浅井氏を滅ぼす |
1573 | 近江 | 兄の木下藤吉郎(秀吉)が浅井氏の旧領北近江3郡を与えられ長浜城を築く 木下藤吉郎が羽柴秀吉に改名する |
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1575 | 6 | 三河 | 長篠の戦い (ながしののたたかい) 織田徳川連合軍が武田軍を壊滅させる |
1575 | 近江 | 羽柴長秀に改名する | |
1576 | 近江 | 藤堂高虎が仕官し、家臣となる | |
1577 | 11 | 加賀 | 手取川の戦い (てどりがわのたたかい) 兄の羽柴秀吉が柴田勝家と意見が対立し無断で撤兵する |
1577 | 11 | 大和 | 信貴山城の戦い (しぎさんじょうのたたかい) |
1577 | 兄の羽柴秀吉が主君の織田信長に中国地方の平定を命じられる | ||
1577 | 但馬 | 竹田城の戦い (たけだじょうのたたかい) 太田垣氏の竹田城を攻め攻略する |
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1581 | 因幡 | 鳥取城の戦い (とっとりじょうのたたかい) 毛利方の鳥取城を兵糧攻めを行い攻略する |
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1582 | 4~6 | 備中 | 備中高松城の戦い (びっちゅうたかまつじょうのたたかい) 毛利方の清水宗治が守備する高松城を水攻めにより降伏させる |
1582 | 6 | 京 | 本能寺の変 (ほんのうじのへん) 明智光秀の謀反により本能寺にて織田信長が自害する |
1582 | 7 | 山城 | 山崎の戦い (やまざきのたたかい) 兄の羽柴秀吉が中国攻めより引き返し、明智光秀と戦い勝利する |
1582 | 7 | 尾張 | 清州会議 (きよすかいぎ) 信忠の嫡男 三法師(織田秀信)が織田家家督を継ぐ 兄の羽柴秀吉が織田家家臣の実質的な筆頭となる |
1583 | 4 | 近江 | 賤ヶ岳の戦い (しずがたけのたたかい) 兄の羽柴秀吉が織田家実権を争い柴田勝家と戦い勝利する 勝家を北ノ庄城で自害させる |
1583 | 摂津 | 兄の羽柴秀吉が大坂城の築城し始める(天守は1585年に完成) | |
1584 | 3~11 | 尾張美濃 | 小牧長久手の戦い (こまきながくてのたたかい) 兄の羽柴秀吉が織田信雄、徳川家康と戦うが池田恒興、森長可らを討ち取られる |
1585 | 四国 | 四国平定 (しこくへいてい) 羽柴秀長が総大将して長宗我部元親と戦う |
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1585 | 8 | 京 | 兄の羽柴秀吉が近衛前久(このえ さきひさ)の猶子(ゆうし)となり、藤原秀吉と改名する 関白宣下を受ける |
1586 | 9 | 京 | 兄の秀吉が正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と改名する |
1586-1587 | 九州 | 豊臣秀吉の九州平定
九州北部まで侵攻していた島津氏を討伐するために豊臣秀吉が出兵した |
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1587 | 5 | 日向 | 根白坂の戦い (ねじろざかのたたかい) 豊臣秀長が九州の東岸より侵攻し、島津義久の軍を破る |
1587 | 6 | 薩摩 | 薩摩川内の泰平寺にて島津義久が豊臣秀吉に降伏する 豊臣氏が九州を平定する |
1587 | 9 | 京 | 豊臣秀長が権大納言に任官する |
1590 | 大和 | 体調が悪化する 小田原征伐には出征せず、留守居役を務めた |
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1591 | 2 | 大和 | 郡山城(こおりやまじょう)にて死去 享年52 |
※年月は西暦
著名子孫 一門
- 養子
- 藤堂 高吉(とうどう たかよし)
1579 ~ 1670 丹羽長秀の三男。秀長の養子となったが、後に藤堂高虎の養子となった。 - 豊臣 秀保(とよとみ ひでやす)
1579 ~ 1595 豊臣秀長の甥、姉日秀の三男。豊臣秀長の婿養子となるが秀長死後の1595年に急死した。
- 藤堂 高吉(とうどう たかよし)
- 一門
- 豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)
1568 ~ 1595 豊臣秀長の甥、姉日秀の長男。1591年、秀吉の後継者として関白に就任するが、1595年に秀吉への謀反の疑いにより自害した。 - 豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ)
1569 ~ 1592 豊臣秀長の甥、姉日秀の次男。1592年、朝鮮出兵(文禄の役)の陣中において病死した。
- 豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)
主君
- 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
秀長の兄。1585年に関白宣下を受け、1590年に全国統一した。
著名家臣
- 横浜 一庵(よこはま いちあん)
秀長の家老を務めた。1596年の慶長伏見地震において死去した。 - 羽田 正親(はねだ まさちか)
秀長の家老を務めた。1595年の豊臣秀次に連座し自害した。 - 藤堂 高虎(とうどう たかとら)
秀長の家臣として、各緒戦において活躍した。後に徳川家の重臣として仕えた。 - 桑山 重晴(くわやま しげはる)
竹田城、和歌山城などの城主を務めた。 - 宇多 頼忠(うだ よりただ)
娘の皎月院(こうげついん)が石田三成の正室となった。