生没年
- 1528?~1582
1528?年(享禄元年?)出生
1582年7月2日(天正10年7月2日)死没
享年 55?
名前
- 明智 十兵衛(あけち じゅうべえ、通称)
- 明智 光秀(あけち みつひで)
- 惟任 光秀(これとう みつひで)
1575~
明智光秀 人物解説
- 清和源氏 土岐(とき)氏の支流 明智氏の出身
- 室町幕府第15代将軍となる足利義昭の家臣から、織田信長の家臣となる
- 信長のもと功績を重ね重臣となる
- 謀反を起こし、本能寺の変で信長を自害させる
- 1582年、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れる
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
---|---|---|---|
明智光秀 | 明智光綱? | 明智光継 | 明智頼尚 |
– | |||
– | – | ||
– | |||
お牧の方 | – | – | |
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– | – | ||
– |
年表(明智光秀 略歴)
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1528? | 美濃 | 明智城(岐阜県可児市)にて出生 | |
美濃 | 斎藤道三に仕える | ||
1556 | 4 | 美濃 | 長良川の戦いで斎藤道三が斎藤義龍に敗れ、討死する |
1556 | 11 | 美濃 | 明智城が斎藤義龍の軍に攻められ落城する |
越前 | 朝倉義景に仕える | ||
足利義昭に仕える | |||
1568 | 7 | 美濃 | 細川藤孝とともに足利義昭の上洛について、美濃を平定した 織田信長 と交渉を行う |
1568 | 10 | 京 | 信長が義昭を伴い上洛し、室町幕府第15代将軍に擁立する |
1569 | 1 | 京 | 本圀寺の変 (ほんこくじのへん) 足利義昭の仮居所となっていた本國寺を三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)の軍が襲撃する 本圀寺は守りが堅固ではなかったが、防戦に成功する |
1570 | 越前 | 金ヶ崎の退き口 (かねがさきののきくち) 金ヶ崎城から撤退する際、 木下秀吉らと殿(しんがり)を努める |
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1571 | 9 | 近江 | 比叡山焼き討ち (ひえいざんやきうち) 武功を立て近江坂本周辺に所領を得る |
1573 | 京 | 足利義昭が織田信長に対して挙兵する 義昭と決別し、信長の家臣となる |
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1575 | 4 | 河内 | 高屋城の戦い (たかやじょうのたたかい) 三好、本願寺軍と戦い織田軍が勝利する |
1575 | 8 | 朝廷より惟任(これとう)の姓を賜り、惟任光秀となる | |
1576 | 5 | 河内 | 天王寺の戦い (てんのうじのたたかい) 本願寺軍と戦い織田軍が勝利する |
1577 | 10 | 大和 | 信貴山城の戦い (しぎさんじょうのたたかい) 謀反を起こした松永久秀を攻め、織田軍が勝利する |
1579 | 丹波、丹後を平定する | ||
1582 | 3 | 甲斐 | 甲州征伐 (こうしゅうせいばつ) 信長の嫡男である織田信忠が甲斐の武田勝頼を攻め、滅亡させる 光秀は後発した信長の軍に従軍する |
1582 | 6 | 京 | 本能寺の変 (ほんのうじのへん) 光秀は羽柴秀吉の毛利氏討伐の援軍に向かうはずであったが、謀反を起こし本能寺を襲撃し信長を自害させる 二条新御所に籠った織田信忠を攻め、自害させる |
1582 | 7 | 山城 | 山崎の戦い (やまざきのたたかい) 中国攻めより引き返してきた羽柴秀吉と摂津、山城の境付近である山崎で戦い敗れる |
1582 | 7 | 山城 | 居城の坂本城へ落ち延びる途中に落ち武者狩りに襲われ自害 享年55? |
※年月は西暦
主君
著名子孫
- 子
- 明智 光慶(あけち みつよし)
- 明智 玉(あけち たま、細川ガラシャ)
細川忠興の正室、後にキリスト教の洗礼を受けた
一門衆
- 明智 秀満(あけち ひでみつ)
娘婿 本能寺の変後に安土城を守備していたが、山崎の合戦で明智勢が敗れると坂本城に籠り自害した - 明智 光忠(あけち みつただ)
娘婿 本能寺の変において負傷し療養していたが、山崎の合戦後に坂本城に籠り自害した
著名家臣
- 斎藤 利三(さいとう としみつ)
江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母 春日局の父 - 藤田 行政(ふじた ゆきまさ)
- 溝尾 茂朝(みぞお しげとも)
- 妻木 広忠(つまき ひろただ)