明智光秀

この記事は約3分で読めます。

生没年

  • 1528?~1582

名前

  • 明智 十兵衛(あけち じゅうべえ、通称)
  • 明智 光秀(あけち みつひで)
  • 惟任 光秀(これとう みつひで)
    1575~

明智光秀 人物解説

  • 清和源氏 土岐(とき)氏の支流 明智氏の出身
  • 室町幕府第15代将軍となる足利義昭の家臣から、織田信長の家臣となる
  • 信長のもと功績を重ね重臣となる
  • 謀反を起こし、本能寺の変で信長を自害させる
  • 1582年、山崎の戦いにて羽柴秀吉に敗れる

父母血縁

父母祖父母曾祖父母
明智光秀明智光綱?明智光継明智頼尚
お牧の方

年表(明智光秀 略歴)

所在出来事
1528?美濃明智城(岐阜県可児市)にて出生
美濃斎藤道三に仕える
15564美濃長良川の戦いで斎藤道三が斎藤義龍に敗れ、討死する
155611美濃明智城が斎藤義龍の軍に攻められ落城する
越前朝倉義景に仕える
足利義昭に仕える
15687美濃細川藤孝とともに足利義昭の上洛について、美濃を平定した 織田信長 と交渉を行う
156810信長が義昭を伴い上洛し、室町幕府第15代将軍に擁立する
15691本圀寺の変
(ほんこくじのへん)

足利義昭の仮居所となっていた本國寺を三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)の軍が襲撃する
本圀寺は守りが堅固ではなかったが、防戦に成功する
1570越前金ヶ崎の退き口
(かねがさきののきくち)

金ヶ崎城から撤退する際、 木下秀吉らと殿(しんがり)を努める
15719近江比叡山焼き討ち
(ひえいざんやきうち)

武功を立て近江坂本周辺に所領を得る
1573足利義昭が織田信長に対して挙兵する
義昭と決別し、信長の家臣となる
15754河内高屋城の戦い
(たかやじょうのたたかい)

三好、本願寺軍と戦い織田軍が勝利する
15758朝廷より惟任(これとう)の姓を賜り、惟任光秀となる
15765河内天王寺の戦い
(てんのうじのたたかい)

本願寺軍と戦い織田軍が勝利する
157710大和信貴山城の戦い
(しぎさんじょうのたたかい)

謀反を起こした松永久秀を攻め、織田軍が勝利する
1579丹波、丹後を平定する
15823甲斐甲州征伐
(こうしゅうせいばつ)

信長の嫡男である織田信忠が甲斐の武田勝頼を攻め、滅亡させる
光秀は後発した信長の軍に従軍する
15826本能寺の変
(ほんのうじのへん)

光秀は羽柴秀吉の毛利氏討伐の援軍に向かうはずであったが、謀反を起こし本能寺を襲撃し信長を自害させる
二条新御所に籠った織田信忠を攻め、自害させる
15827山城山崎の戦い
(やまざきのたたかい)

中国攻めより引き返してきた羽柴秀吉と摂津、山城の境付近である山崎で戦い敗れる
15827山城居城の坂本城へ落ち延びる途中に自害 享年55?

※年月は西暦 

主君

著名子孫

    • 明智 光慶(あけち みつよし)
    • 明智 玉(あけち たま、細川ガラシャ)
      細川忠興の正室、後にキリスト教の洗礼を受けた

一門衆

  • 明智 秀満(あけち ひでみつ)
    娘婿 本能寺の変後に安土城を守備していたが、山崎の合戦で明智勢が敗れると坂本城に籠り自害した
  • 明智 光忠(あけち みつただ)
    娘婿 本能寺の変において負傷し療養していたが、山崎の合戦後に坂本城に籠り自害した

著名家臣

  • 斎藤 利三(さいとう としみつ)
    江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母 春日局の父
  • 藤田 行政(ふじた ゆきまさ)
  • 溝尾 茂朝(みぞお しげとも)
  • 妻木 広忠(つまき ひろただ)
タイトルとURLをコピーしました