生没年
- 1519~1560
出生
1519年(永正16年)
死没
1560年6月12日(永禄3年5月19日)
享年 42
名前(幼名、改名等)
- 芳菊丸(幼名)
- 栴岳承芳(せんがくしょうほう)
- 今川 義元(いまがわ よしもと)1536~
今川義元 人物解説
- 駿河守護今川氏親の三男?として出生
- 今川氏は足利将軍家の征夷大将軍継承権を持つ吉良氏の庶流
- 祖母は北条早雲の姉北川殿
- 師であり軍師であった太原雪斎(たいげんせっさい)に助けられた
- 駿河、遠江、三河に勢力を拡大
- 尾張侵攻の際、桶狭間にて織田信長の奇襲を受け討死(桶狭間の戦い)
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
---|---|---|---|
今川義元 | 今川氏親 | 今川義忠 | 今川範忠 |
上杉氏定娘 | |||
北川殿 北条早雲姉 |
伊勢盛定 | ||
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寿桂尼 | 中御門宣胤 | 中御門明豊 | |
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年表( 今川義元 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1519 | 駿河 | 今川氏親の三男?として生まれる | |
1525頃 | 京 | 栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称し仏門に入り、太原雪斎と共に京に上る | |
1536 | 4 | 駿河 | 兄の当主であった今川氏輝が急死し、次兄の今川彦五郎も同日に死去する |
1536 | 駿河 | 還俗(げんぞく、僧から俗人に戻ること)して、今川義元を名乗る | |
1536 | 6 | 駿河 | 花倉の乱 (はなくらのらん) 庶兄の玄広恵探(げんこう えたん)と家督を争い勝利する |
1536~1545 | 駿河 | 河東の乱 (かとうのらん) 相模の北条氏と富士川以東をめぐり戦う |
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1538 | 駿河 | 嫡男となる竜王丸(後の今川氏真)が生まれる | |
1549~1551 | 三河 | 三河をほぼ制圧する | |
1554 | 甲相駿三国同盟 (こうそうすんさんごくどうめい) |
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1557 | 駿河 | 義元の姪である築山殿(つきやまどの)と松平元信(徳川家康)が結婚する | |
1558 | 駿河 | 隠居し、家督を嫡男の今川氏真に譲る | |
1560 | 5 | 尾張 | 桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい) 尾張に侵攻するが、桶狭間にて織田信長の奇襲を受け討死 享年42 |
著名子孫
- 子
- 今川 氏真(いまがわ うじざね)
今川義元の嫡男。武田信玄、徳川家康の侵攻を受け、1569年に今川家は滅亡した。
- 今川 氏真(いまがわ うじざね)
一門衆
- 瀬名 氏俊(せな うじとし)
駿河今川氏分家の遠江今川氏一族である瀬名家の当主。桶狭間の戦いでは、今川義元本隊の前方に展開していた。 - 関口 氏純(せきぐち うじずみ、親永)
瀬名氏俊の実弟。娘の築山殿は、松平元信(後の徳川家康)に嫁ぎ正室となった。
著名家臣
- 太原 雪斎(たいげん せっさい)
今川義元の養育係を務め、政治や軍事を全面的に補佐し今川家の勢力拡大に尽力した。 - 松井 宗信(まつい むねのぶ)
遠江松井氏の当主、二俣城城主。桶狭間の戦いでは、義元本隊の前備えであったが本陣を守るために奮戦し討死した。 - 朝比奈 泰能(あさひな やすよし)
遠江の掛川城主、今川氏親、氏輝、義元の3代に仕えた重臣。 - 朝比奈 泰朝(あさひな やすとも)
父朝比奈泰能の死後に家督を継いだ。義元死後、今川氏真を補佐した。 - 井伊 直盛(いい なおもり)
遠江井伊谷城の城主、井伊直虎の父。桶狭間の戦いにおいて討死した。 - 井伊 直親(いい なおちか)
井伊直盛の養子となり、井伊氏の当主となる。井伊直政の父。今川氏真より謀反を疑われ、朝比奈泰朝に謀殺された。 - 岡部 元信(おかべ もとのぶ)
今川氏の重臣として活躍した。今川氏没落後、武田氏に仕えた。