生没年
- 1557 ~ 1582
出生
1557年(弘治 3年)
死没
1582年6月21日(天正10年6月 2日)
享年 26
名前
- 奇妙丸(きみょうまる、幼名)
- 織田 信重(おだ のぶしげ)
- 織田 信忠(おだ のぶただ)
織田信忠 人物解説
- 尾張守護代 清洲織田家の分家である織田弾正忠家の出身
- 織田信長(おだ のぶなが)の嫡男
- 1576年、織田信長から織田家の家督を譲られる
- 1582年の甲州征伐では、総大将として織田軍を率い武田家を滅亡させた
- 1582年6月の本能寺の変において、明智光秀の謀反により、二条新御所(にじょうしんごしょ)にて奮戦したが自害した
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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織田信忠 | 織田信長 | 織田信秀 | 織田信定 |
織田良頼娘 | |||
土田御前 | 土田政久 | ||
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生駒吉乃 | 生駒家宗 | 生駒豊政 | |
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年表( 織田信忠 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1557 | 尾張 | 織田弾正忠家の当主である織田信長の嫡男として出生する | |
1567 | 美濃 | 父の織田信長が稲葉山城を岐阜(ぎふ)城と改名し、尾張国の清州(きよす)より本拠地を移す | |
1572頃 | 美濃 | 元服し、織田信重と称す | |
美濃 | 改名し、織田信忠と称す | ||
近江 | 北近江の浅井氏攻略の戦いで初陣を飾る | ||
父の織田信長に従い、石山合戦、美濃岩村城攻め、長島一向一揆などの各地を転戦する | |||
1575 | 6 | 三河 | 長篠の戦い (ながしののたたかい) 織田徳川連合軍が三河に侵攻してきた武田勝頼軍を壊滅させる |
1575 | 12 | 美濃 | 岩村城の戦い (いわむらじょうのたたかい) 織田軍を率いて武田方の秋山虎繁(あきやま とらしげ)が守る岩村城を攻略する |
1576 | 12 | 美濃 | 織田家の家督継承 (おだけのかとくけいしょう) 父の織田信長より、織田家の家督と岐阜城や美濃、尾張の所領の一部を譲り受ける |
1576 | 12 | 正五位下(しょうごいげ)に叙せられ、秋田城介(あきたじょうのすけ)に任官する | |
1576 | 12 | 紀伊 | 雑賀攻め (さいかぜめ) 石山合戦において、本願寺方であった紀伊国の雑賀衆を攻め、鈴木重秀(すずき しげひで、雑賀孫一)らを降伏させる |
1577 | 11 | 大和 | 信貴山城の戦い (しぎさんじょうのたたかい) 織田信忠が総大将となり率いる織田軍が松永久秀の居城である信貴山城を攻略する |
1577 | 11 | 功績により、従三位(じゅさんみ)左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)に任じられる | |
1578 | 播磨 | 三木合戦 (みきかっせん) 播磨を攻略中であった羽柴秀吉の援軍を総大将として率い、出陣する |
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1579 | 12 | 摂津 | 有岡城の戦い (ありおかじょうのたたかい) 謀反を起こした荒木村重を攻め鎮圧する |
1582 | 3 | 信濃甲斐 | 甲州征伐 (こうしゅうせいばつ) 織田信忠が総大将を務める織田軍が信濃甲斐に侵攻し、武田家を滅亡させる |
1582 | 6 | 京 | 備中高松城を攻略中であった羽柴秀吉の援軍として出陣するために上洛し、妙覚寺を宿舎とする |
1582 | 6 | 京 | 本能寺の変 (ほんのうじのへん) 明智光秀 の謀反により、父の織田信長が本能寺にて自害する 織田信忠も攻められ、二条新御所に籠城し奮戦するが自害 享年26 |
※年月は西暦
主君
- 織田 信長(おだ のぶなが)
1534~1582
著名子孫
- 子
- 織田 秀信(おだ ひでのぶ)
織田信忠の嫡男、関ケ原の戦いでは西軍に属したが、前哨戦において岐阜城が攻められ落城し改易となった
- 織田 秀信(おだ ひでのぶ)
一門衆
- 織田 信雄(おだ のぶかつ)
弟、織田信長の次男、小牧長久手の戦いでは徳川家康と連合を組み羽柴秀吉と戦ったが、後に和睦した - 織田 信孝(おだ のぶたか)
弟、織田信長の三男、兄の織田信雄、羽柴秀吉らと争うが敗れ、1583年に自害した - 羽柴 秀勝(はしば ひでかつ)
弟、織田信長の四男、羽柴秀吉の養子となるが1586年に病死した - 織田 勝長(おだ かつなが)
弟、織田信長の五男、美濃岩村城主である遠山氏の養子となるが、武田氏の人質となった。その後、織田家に帰されたが本能寺の変において長兄の織田信忠とともに討死した - 織田 信秀(おだ のぶひで)
弟、織田信長の六男、キリスト教に改宗し文禄年間(1592~1596)頃に病死した - 織田 信高(おだ のぶたか)
弟、織田信長の七男、羽柴秀吉に仕えたが、関ケ原の戦いでは西軍に属した - 織田 信吉(おだ のぶよし)
弟、織田信長の八男、羽柴秀吉に仕えたが、兄の信高とともに関ケ原の戦いでは西軍に属した - 織田 信貞(おだ のぶさだ)
弟、織田信長の九男、羽柴秀吉に仕えたが、兄の信高、信吉とともに関ケ原の戦いでは西軍に属した - 織田 信好(おだ のぶよし)
弟、織田信長の十男、羽柴秀吉に仕えた - 織田 長次(おだ ながつぐ)
弟、織田信長の十一男、羽柴秀吉に仕えたが、兄らとともに関ケ原の戦いでは西軍に属し戦死した - 織田 信包(おだ のぶかね)
叔父、織田信秀の四男 - 津田 信澄(つだ のぶずみ)
従兄、織田信秀の三男である織田信行の嫡男 - 織田 長益(おだ ながます、有楽斎)
叔父、織田信秀の十一男
著名家臣
- 河尻 秀隆(かわじり ひでたか)
織田信忠の補佐役を務めた。甲州征伐後、甲斐を与えられるが本能寺の変後に国人一揆が起こり、討死した。 - 森 長可 (もり ながよし)
森可成(もり よしなり)の次男、森成利(もり なりとし、蘭丸)の兄。甲州征伐では先鋒を務めた。徳川家康軍との小牧長久手の戦いにおいて戦死した。 - 斎藤 利治(さいとう としはる)
斎藤道三の子、織田信忠の側近となる。本能寺の変では、信忠とともに二条新御所にて奮戦するが討死した。 - 斎藤 利堯(さいとう としたか)
斎藤道三の子、本能寺の変後は織田信孝に仕えた。