加藤清正

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生没年

  • 1562~1611

    出生
    1562年7月25日(永禄5年6月24日)

    死没
    1611年8月2日(慶長16年6月24日)

享年 50

名前

  • 加藤 夜叉丸(かとう やしゃまる、幼名)
  • 加藤 虎之助(かとう とらのすけ、別名)
  • 加藤 清正 (かとう きよまさ)1576~

加藤清正 人物解説

  • 羽柴秀吉の生母である大政所(おおまんどころ、なか)と実母が従姉妹
  • 賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げ、賤ケ岳の七本槍に数えられた
  • 文禄の役、慶長の役では、共に主力として戦った
  • 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、九州において西軍と戦った
  • 関ヶ原後は、肥後一国の大名となった

父母血縁

父母 祖父母 曾祖父母
加藤清正 加藤清忠 加藤清信 _
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伊都
(鍛冶屋清兵衛娘)
鍛冶屋清兵衛 _
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年表( 加藤清正 略歴 )

所在 出来事
1562 7 尾張 尾張国愛知郡の刀鍛冶であった加藤清忠(かとう きよただ)の子として出生する
1564 尾張 父の加藤清忠が死去する
1573 近江 母親同士が従姉妹であった羽柴秀吉が織田信長より、北近江の三郡を与えられ長浜城主となる
秀吉の小姓となる
1576 近江 元服し、加藤虎之助清正と名乗る
秀吉より170石の所領を与えられる
1582 7 山城 山崎の戦い
(やまざきのたたかい)

羽柴秀吉が中国攻めより引き返し、明智光秀と戦い勝利する

1583 4 近江 賤ヶ岳の戦い
(しずがたけのたたかい)

羽柴秀吉が織田家実権を争い柴田勝家と戦い勝利する
清正は柴田方の山路正国(やまじ まさくに)を討ち取る
清正は武功を挙げた福島正則、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則らと共に賤ヶ岳の七本槍に数えられた

1583 近江 秀吉より3000石の所領を与えられる
1584 3~11 尾張美濃 小牧長久手の戦い
(こまきながくてのたたかい)

主君の羽柴秀吉が織田信雄、徳川家康と戦うが秀吉方であった池田恒興、森長可らを討ち取られる
秀吉は信雄と単独で講和し家康とも講和する

1585 8 羽柴秀吉が近衛前久の猶子となり藤原秀吉と改名する
関白宣下を受ける
加藤清正は従五位下主計頭に任ぜられた
1586 9 秀吉が正親町天皇から豊臣の姓を賜り豊臣秀吉と改名する
1586~1587 九州 九州征伐
(きゅうしゅうせいばつ)

秀吉が九州を平定するために一大勢力であった島津氏と戦う
清正は秀吉軍に従軍した
九州の西部より秀吉軍、東部より秀長軍が大軍により島津領に侵攻した為、島津勢は対応できずに当主の島津義久は降伏した

1588 肥後 肥後国衆一揆の鎮圧後に秀吉より肥後の北半国を与えられる
1591 肥後 後の熊本城となる城郭を築き始める
1592~1593 朝鮮 文禄の役
(ぶんろくのえき)

豊臣秀吉が明を征伐するため朝鮮に出兵する
清正は二番隊の主将を務め、朝鮮各地を転戦しオランカイ(満州南部)へ侵攻した

1593 8 大坂城にて拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生する
1597~1598 朝鮮 慶長の役
(けいちょうのえき)

豊臣秀吉の命により、再度、朝鮮に出兵する
清正は蔚山城にて籠城し明朝鮮連合軍を撃退した
豊臣秀吉が伏見城にて死去した為、日本へ撤退した

1599 4 大坂 七将による石田三成邸襲撃

豊臣政権の武断派であった七将(加藤清正、福島正則、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政)が大坂の石田三成邸を襲撃する

1600 10 関ヶ原の戦い
(せきがはらのたたかい)

徳川家康率いる東軍が、石田三成らを中心とする西軍を撃破する
清正は領国の肥後におり、九州の西軍方の諸城を攻略した

1600 肥後 軍功により、西軍に属した小西行長の領土であった肥後南部を与えられ、肥後一国52万石の大名となる
1606 娘のあま姫が徳川四天王の一人といわれた榊原康政の嫡男である榊原康勝に輿入れする
1610 尾張 幕府の天下普請により、名古屋城が築城される
清正は天守台の石垣を築いた
1611 3 二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われた
清正は浅野幸長(あさの よしなが)らとともに同席した
熊本への帰国途中に急病となる
1611 8 肥後 熊本城にて、死去 享年50

※年月は西暦 

主君

  • 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)1590~
    1585年、関白宣下。 1590年全国統一
  • 豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)1598~
    1593年出生、豊臣秀吉の子。
  • 徳川 家康(とくがわ いえやす)1600~
    三河松平氏出身、1603年征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。
  • 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)1605~
    徳川家康の三男、江戸幕府の第二代征夷大将軍。

著名子孫

    • 加藤 虎熊(かとう とらくま)
      加藤清正の長男であったが夭折した。
    • 加藤 忠正(かとう ただまさ)
      加藤清正の次男。肥後国熊本藩の跡継ぎとして、加藤家の江戸屋敷に滞在していたが9才にて病死した。
    • 加藤 忠広(かとう ただひろ)
      加藤清正の三男、肥後国熊本藩2代藩主。清正の死後に11歳にて藩主となるが1632年に改易となった。
    • 加藤 光広(かとう みつひろ)
      加藤忠広の長男。加藤家の改易後の翌年に病死した。

著名家臣

  • 飯田 直景(いいだ なおかげ)
    加藤家三傑の一人。槍術に優れ、日本槍柱七本の一人に数えられた。
  • 森本 一久(もりもと かずひさ) 
    加藤家三傑の一人。
  • 庄林 一心(しょうばやし かずただ)
    加藤家三傑の一人。
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