生没年
- 1547~1611
1547年(天文16年)出生
1611年7月13日(慶長16年6月4日)死没
享年 65
名前
- 源五郎 (げんごろう、幼名)
- 武藤 喜兵衛(むとう きへえ)
- 真田 昌幸 (さなだ まさゆき)
真田昌幸 人物解説
- 信濃小県郡(ちいさがたぐん)の有力豪族である海野氏支流の真田氏出身
- 武田信玄の家臣である 真田幸隆(さなだ ゆきたか)の三男
- 武田信玄の奥近習(おくきんじゅう)衆となる
- 甲斐源氏武田氏の庶流 大井氏の支流 武藤氏の養子となる
- 長兄の真田信綱(さなだ のぶつな)、次兄の真田昌輝(さなだ まさてる)が1575年に起きた長篠の戦いで討死した為、真田氏の家督を相続した
- 1582年、主家の武田氏滅亡後は一勢力として自立する
- 1585年、第一次上田合戦において侵攻してきた徳川家康の軍を撃退する
- 1585年、次男の真田信繁(幸村)を人質とし、豊臣秀吉に臣従する
- 1600年、第二次上田合戦では、徳川秀忠率いる徳川軍を食い止め関ケ原の戦いを遅参させた
- 関ケ原の戦い後は、西軍に属した為、九度山へ配流となった
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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真田昌幸 | 真田幸隆 (幸綱) |
真田頼昌? | _ |
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海野棟綱娘? | _ | ||
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恭雲院 (河原隆正妹) |
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年表( 真田昌幸 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1547 | 信濃 | 甲斐の武田信玄の家臣 真田幸隆の三男として出生する | |
1553 | 甲斐 | 7歳にて主家武田氏の人質となり、武田晴信(信玄)の奥近習(おくきんじゅう)衆となる | |
甲斐 | 甲斐源氏武田氏の庶流である大井氏支流の武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称す 足軽大将に任じられる |
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1566 | 甲斐 | 嫡男の真田信幸(信之)が生まれる | |
1567? | 甲斐 | 次男の真田信繁(幸村)が生まれる | |
1567 | 信濃 | 長兄の真田信綱が真田家の家督を継ぐ | |
1569 | 11 | 相模 | 三増峠の戦い (みませとうげのたたかい) 甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康の軍が戦う 先陣を務めた馬場信春への使番(伝令)を務める |
1572 | 10 | 三河遠江 | 武田信玄の西上作戦 (せいじょうさくせん) 武田信玄が総勢3万の兵で徳川領へ侵攻 |
1573 | 1 | 遠江 | 三方ヶ原の戦い (みかたがはらのたたかい) 徳川家康の軍を武田軍が撃破する |
1573 | 4 | 信濃 | 主君の武田信玄が持病を悪化させ甲斐へ撤退中に死去する |
1574 | 6 | 信濃 | 父の真田幸隆が戸石城で病死する |
1575 | 6 | 三河 | 長篠の戦い (ながしののたたかい) 昌幸が武田勝頼の旗本衆として参戦していた武田軍が織田、徳川連合軍に敗退し壊滅する 長兄の真田信綱、次兄の真田昌輝が共に討死する |
1575 | 甲斐 | 当主の兄 信綱が戦死したため、真田家の家督を継ぐ | |
1580 | 上野 | 武田勝頼の命を受け、上野(こうずけ)国の北条方であった沼田城を調略により攻略する | |
1581 | 甲斐 | 武田勝頼の命により、新府城を築城するための人夫を動員する | |
1582 | 4 | 甲斐信濃 | 武田家の滅亡 織田信長、徳川家康の連合軍により、甲州征伐が行われる 昌幸は主君の武田勝頼に上野国の岩櫃(いわびつ)城へ落ち延びるように進言する 勝頼は甲斐国の岩殿(いわどの)城を目指して落ち延びようとするが小山田信茂の離反に合い、織田軍に追いつかれ交戦し自害する |
1582 | 4 | 織田信長に恭順し旧領を安堵され、織田氏の重臣である滝川一益(たきがわ かずます)の与力となる 次男の真田信繁(幸村)を人質として滝川一益へ差し出す |
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1582 | 6 | 京 | 本能寺の変 (ほんのうじのへん) 織田信長が家臣の明智光秀に謀反を起こされ本能寺にて自害する |
1582 | 7 | 武蔵 | 神流川の戦い (かんながわのたたかい) 昌幸が参陣した織田方の滝川一益軍と北条軍が戦う 織田方が敗れ、滝川一益は自身の本拠である伊勢長島に退去した |
1582 | 信濃 | 状況により、上杉、北条、徳川へ従属する | |
1585 | 8 | 信濃 | 徳川氏と手切れをし、次男の真田信繁(幸村)を人質として差し出し、上杉氏へ従属する |
1585 | 9 | 信濃 | 第一次上田合戦 (だいいちじうえだかっせん) 鳥居元忠率いる徳川軍が上田城に攻め寄せるが撃退する |
1585 | 信濃 | 豊臣秀吉に臣従し、次男の真田信繁(幸村)を人質として差し出す | |
1587 | 大坂 | 上洛し、大坂で豊臣秀吉と謁見する | |
1587 | 豊臣秀吉が関東・奥羽地方に向けて惣無事令(そうぶじれい)を発令する (惣無事令とは戦国大名間での私戦禁止令) |
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1589頃 | 駿河 | 嫡男の真田信幸が徳川家康の重臣である本多忠勝の娘 小松姫と婚姻する | |
1589 | 上野 | 真田氏勢力下の名胡桃(なぐるみ)城が北条氏家臣の猪俣邦憲(いのまた くにのり)に奪取される 昌幸は直ちに徳川家康を通して惣無事令違反を秀吉に訴えた |
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1590 | 上野武蔵 | 小田原征伐 (おだわらせいばつ) 北条氏討伐のための豊臣秀吉軍に参陣する 真田軍は北方隊として、北条領北側の上野(こうずけ)より侵攻する |
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1590 | 7-8 | 武蔵 | 忍城の戦い (おしじょうのたたかい) 石田三成の指揮下において、忍城攻めに加わる |
1592~1593 | 肥前 | 文禄の役(ぶんろくのえき) 肥前の名護屋城に在陣する |
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1598 | 9 | 山城 | 豊臣秀吉が伏見城にて死去する |
1600 | 徳川家康が出仕を拒否した上杉景勝の討伐軍を起こす 昌幸もこれに従い関東へ下る |
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1600 | 下野 | 石田三成の家康弾劾の書状を受け取る 昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍に付き、嫡男の信幸は東軍に付く |
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1600 | 10 | 信濃 | 第二次上田合戦 (だいにじうえだかっせん) 徳川秀忠が率いる徳川軍を上田城で籠城し迎え撃ち、関ケ原本戦に遅参させる |
1600 | 信濃 | 関ケ原本戦において西軍が敗退した後、しばらく籠城を続けるが降伏を受け入れ開城する 嫡男の真田信幸と本多忠勝の助命嘆願により死罪とはならず、高野山への配流となる |
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1601 | 1 | 信濃 ↓ 紀伊 |
次男の真田信繁(幸村)とともに配流先の高野山に向かう 配流先が高野山北の九度山に代わる |
1611 | 7 | 紀伊 | 配流先の九度山で死去 享年65 |
※年月は西暦
主君
- 武田 信玄(たけだ しんげん)~1573
甲斐の守護大名 甲斐源氏嫡流武田氏第19代当主 - 武田 勝頼(たけだ かつより)~1582
武田信玄の四男 信玄死去後、武田氏の当主となるが、1582年の織田信長による甲州征伐により自害し、甲斐武田氏は滅亡する - 織田 信長(おだ のぶなが) 1582
真田氏の主家である武田氏を滅ぼしたが、本能寺の変にて自害した - 北条 氏直(ほうじょう うじなお) 1582
後北条氏の第5代当主 豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏は降伏した - 上杉 景勝(うえすぎ かげかつ) 1585
上杉謙信の養子 母 仙桃院は上杉謙信の姉 謙信の死後に御館の乱で勝利し後継者となった - 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)~1598
関白 1590年全国統一 - 豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)1598~
1593年出生 秀吉の子
著名子孫
- 子
- 真田 信幸(さなだ のぶゆき、信之)
嫡男、信濃松代藩の初代藩主 妻は本多忠勝の娘 小松姫 関ケ原の戦いでは東軍に付いた - 真田 信繁(さなだ のぶしげ、幸村)
次男、関ケ原の戦いでは西軍に付き、昌幸と共に上田城に籠城した 大坂夏の陣において、徳川家康の本陣まで攻め込むが討死する
- 真田 信幸(さなだ のぶゆき、信之)
- 孫
- 真田 信政(さなだ のぶまさ)
信幸の次男、信濃松代藩の第2代藩主 - 真田 幸昌(さなだ ゆきまさ、大助)
信繁の嫡男、大坂夏の陣において豊臣秀頼に殉じて自害した
- 真田 信政(さなだ のぶまさ)
一門衆
- 真田 信尹(さなだ のぶただ)
真田幸隆の四男、昌幸の弟 武田家滅亡後は上杉家、北条家、蒲生家、徳川家に仕えた - 矢沢 頼綱(やざわ よりつな)
真田幸隆の弟、昌幸の叔父 矢沢家の養子となる 武田家滅亡以前より、重臣として活躍する
著名家臣
- 河原 綱家(かわはら つないえ)
甲州征伐のおり、昌幸の正室 山手殿らを護衛した - 出浦 盛清(いでうら もりきよ)
上野の岩櫃城代を務めた - 唐沢 玄蕃(からさわ げんば)
上野国吾妻出身の忍者