生没年
- 1567 ~ 1636
出生
1567年 9月5日(永禄10年8月3日)
死没
1636年 6月27日(寛永13年5月24日)
享年 70
名前
- 伊達 梵天丸(だて ぼんてんまる、幼名)
- 伊達 藤次郎(だて とうじろう、仮名、通称)
- 伊達 政宗 (だて まさむね)
伊達政宗 人物解説
- 伊達氏の第17代当主
- 仙台藩の初代藩主
- 1586年、人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)において、佐竹義重率いる佐竹および南奥諸大名の連合軍と戦う
- 1589年、摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)において、会津の蘆名義広軍との合戦を行い勝利し、南奥州を支配下に置いた
- 小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に恭順する
- 関ヶ原の戦いにおいては東軍に属し、上杉景勝の軍と戦った(慶長出羽合戦)
- 居城を仙台に移し、仙台城(青葉城)と城下町を築く
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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伊達政宗 (まさむね) |
伊達輝宗 (てるむね) |
伊達晴宗 (はるむね) |
伊達稙宗 (たねむね) |
泰心院 蘆名盛高娘 |
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久保姫 岩城重隆娘 |
岩城重隆 | ||
江戸但馬守娘 | |||
義姫 最上義守娘 |
最上義守 | 中野義清 | |
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年表( 伊達政宗 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1567 | 9 | 出羽 | 出羽国の米沢にて伊達氏第16代当主の伊達輝宗(だて てるむね)の嫡男として出生する |
1577 | 12 | 出羽 | 元服し、伊達藤次郎政宗と名乗る |
1579 | 出羽 | 陸奥国の三春城主である田村清顕(たむら きよあき)娘の愛姫(めごひめ)と婚姻する | |
1581 | 陸奥 | 陸奥国の相馬氏との戦いで初陣を飾る | |
1584 | 出羽 | 父の伊達輝宗が隠居し家督を相続する 伊達氏の第17代当主となる |
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1585 | 11 | 陸奥 | 粟ノ巣の変 (あわのすのへん) 降伏した二本松(畠山)義継に父の伊達輝宗が拉致される |
1586 | 1 | 陸奥 | 人取橋の戦い (ひととりばしのたたかい) 伊達政宗の軍が畠山義継の二本松城を攻めるが、佐竹氏、蘆名氏、二階堂氏らと常陸、南陸奥諸大名連合軍が二本松勢の援軍に来る |
1587 | 陸奥 | 蘆名氏の当主であった蘆名亀王丸(あしな かめおうまる)が三歳で死去する 佐竹義重の次男である白河義広が蘆名氏の後継者となり、蘆名氏二十代当主の蘆名義広(あしな よしひろ)となる |
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1587 | 豊臣秀吉が関東・奥羽地方に向けて惣無事令(そうぶじれい)を発令する (惣無事令とは戦国大名間での私戦禁止令) |
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1588 | 陸奥 | 郡山合戦 (こおりやまがっせん) 陸奥国安積郡の郡山城、窪田城周辺において、蘆名氏、相馬氏、佐竹氏連合軍と伊達軍が対峙し戦う |
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1589 | 7 | 陸奥 | 摺上原の戦い (すりあげはらのたたかい) 磐梯山裾野の摺上原において、伊達軍と佐竹義重の次男である蘆名義広軍が戦う |
1589 | 陸奥 | 出羽の米沢城から会津の黒川城へ本拠を移す | |
1590 | 5 | 陸奥 | 弟の伊達小次郎が急死する |
1590 | 2-8 | 武蔵 | 小田原征伐 (おだわらせいばつ) 豊臣秀吉に恭順し、北条氏討伐のための豊臣軍に参陣する |
1590 | 8-9 | 奥州 | 奥州仕置 (おうしゅうしおき) 豊臣秀吉により、奥州出羽地方における領土の差配が行われる |
1590 | 出羽 | 会津の所領が没収となったため、黒川城から出羽の米沢城へ本拠を移す | |
1590-1591 | 陸奥 | 葛西大崎一揆 (かさいおおさきいっき) 豊臣秀吉により改易となっていた葛西氏と大崎氏が陸奥国で一揆を起こす |
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1591 | 陸奥 | 政宗に葛西大崎一揆を扇動した疑いが掛かり、旧所領の一部である6郡(米沢を含む)が没収、葛西大崎13郡が加増とった 石高は72万石から58万石へ減封となる |
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1591 | 陸奥 | 米沢の所領(長井郡)が没収となったため、米沢城から新領である陸奥の岩出山城(いわでやまじょう)へ本拠を移す | |
1592~1593 | 朝鮮 | 文禄の役 (ぶんろくのえき) 豊臣秀吉が明を征伐するため朝鮮に出兵する |
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1598 | 9 | 山城 | 豊臣秀吉が伏見城にて死去する |
1599 | 政宗の長女である五郎八姫(いろはひめ)と徳川家康の六男である松平忠輝(まつだいら ただてる)が婚約する | ||
1600 | 7 | 会津征伐 (あいづせいばつ) 徳川家康が召喚に応じない会津の上杉景勝に対して征伐軍を自ら率いて出陣する |
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1600 | 10 | 出羽 | 慶長出羽合戦 (けいちょうでわかっせん) 徳川家康軍が畿内へ転進した為、上杉家の重臣である直江兼続(なおえ かねつぐ)が出羽の最上領へ侵攻する |
1601 | 1 | 陸奥 | 仙台に居を移し、仙台城(青葉城)と城下町の建設を始める |
1613 | 10 | 陸奥 | 家臣の支倉常長(はせくら つねなが)に慶長遣欧使節団を率させ、ヨーロッパまで使節を送る |
1614 | 12 | 摂津 | 大坂冬の陣 (おおさかふゆのじん) 徳川家康が20万の軍勢を率いて豊臣秀頼の籠城する大阪城を包囲し攻撃する |
1614 | 政宗の庶子である伊達秀宗(ひでむね)が伊予宇和島10万石を別家として嗣ぐ | ||
1615 | 6 | 摂津 | 大坂夏の陣 (おおさかなつのじん) 豊臣方の再戦の準備を口実に徳川家康が再度出兵する |
1616 | 8 | 娘の五郎八姫の夫である松平忠輝が改易となる | |
1620 | 9 | 陸奥 | 家臣の支倉常長がヨーロッパより帰国する |
1623 | 8 | 徳川家光が江戸幕府第三代将軍に就任する | |
1636 | 6 | 江戸 | 江戸の藩邸で死去 享年70 |
※年月は西暦
主君
- 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)1590~
1585年、関白宣下。 1590年全国統一 - 豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)1598~
1593年出生、豊臣秀吉の子。 - 徳川 家康(とくがわ いえやす)1604~
三河松平氏出身、1603年征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。 - 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)1605~
徳川家康の三男、江戸幕府の第二代征夷大将軍。 - 徳川 家光(とくがわ いえみつ)1623~
徳川秀忠の嫡男、江戸幕府の第三代征夷大将軍。
著名子孫
- 子
- 伊達 秀宗(だて ひでむね)
政宗の長男(庶子)、伊予国の宇和島藩初代藩主。政宗が与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、陸奥仙台藩は弟で政宗の嫡子(正室の子)であった伊達忠宗が継いだ。 - 伊達 忠宗(だて ただむね)
政宗の次男(嫡子)、陸奥国の仙台藩第二代藩主。政宗と正室である愛姫(めごひめ)との子。 - 伊達 宗清(だて むねきよ)
政宗の三男、陸奥国の吉岡城城主。
- 伊達 秀宗(だて ひでむね)
- 孫
- 伊達 綱宗(だて つなむね)
伊達忠宗の六男、仙台藩第三代藩主。 - 伊達 宗利(だて むねとし)
伊達秀宗の三男、宇和島藩第二代藩主。
- 伊達 綱宗(だて つなむね)
一門
- 伊達 政道(だて まさみち、小次郎)
伊達輝宗の次男、政宗の同母弟であったが1590年に急死した。 - 石川 昭光(いしかわ あきみつ)
伊達晴宗(政宗の祖父)の四男、角田石川家の初代当主。 - 伊達 成実(だて しげざね)
亘理伊達家(わたりだてけ)の初代当主。 - 留守 政景(るす まさかげ)
伊達晴宗の三男、留守氏18代当主。慶長出羽合戦において、最上義光への援軍総大将を務めた。
家臣
- 片倉 景綱(かたくら かげつな、小十郎)
姉の喜多は政宗の乳母を務めた。政宗に近習し、後に重臣として活躍した。 - 鬼庭 良直(おににわ よしなお、左月斎)
父伊達輝宗の代より側近として活躍した。人取橋の戦いにおいて、殿(しんがり)を務め討死した。 - 鬼庭 綱元(おににわ つなもと)
鬼庭良直の嫡男。豊臣秀吉との折衝役を務めた。一時出奔するが後に赦された。 - 後藤 信康(ごとう のぶやす)
葛西大崎一揆、文禄の役、白石城の戦い等において活躍した。 - 原田 宗時(はらだ むねとき)
摺上原の戦いや諸所の戦いにおいて武功をあげた。文禄の役において病を患い死去した。 - 支倉 常長(はせくら つねなが)
幕府の許可を得た政宗の命により、慶長遣欧使節の副使(正使は宣教師ルイス・ソテロ)として、ヨーロッパを訪問した。