立花宗茂

この記事は約8分で読めます。

生没年

  • 1567 ~ 1643

    出生
    1567年 9月20日(永禄10年8月18日)

    死没
    1643年 1月15日(寛永19年11月25日)

享年 76

名前

  • 吉弘 千熊丸(よしひろ せんくままる、幼名)
  • 高橋 弥七郎(たかはし やしちろう)
  • 高橋 統虎 (たかはし むねとら)
  • 戸次 統虎 (べっき むねとら) 1581-
  • 立花 統虎 (たちばな むねとら)1582-
  • 立花 鎮虎 (たちばな しげとら)
  • 立花 宗虎 (たちばな むねとら)
  • 立花 正成 (たちばな まさ??)
  • 立花 親成 (たちばな ちか??)
  • 立花 政高 (たちばな まさたか)
  • 立花 尚政 (たちばな なおまさ)
  • 立花 俊正 (たちばな としまさ)
  • 立花 経正 (たちばな つねまさ)
  • 立花 信正 (たちばな のぶまさ)
  • 立花 宗茂 (たちばな むねしげ)1610頃-
  • 立花 立斎 (たちばな りっさい、号)

立花宗茂 人物解説

  • 大友氏庶流の吉弘氏出身
  • 豊後国(現在の大分県)大友氏の家臣である吉弘鎮理(しげまさ、後の高橋紹運)の長男
  • 大友氏の重臣である立花道雪の婿養子となり、後に立花氏の家督を継いだ
  • 豊臣秀吉の九州征伐において武功を立て、筑後国柳川8万石を与えられた
  • 文禄の役(1592-1593)、慶長の役(1597-1598)に参陣し活躍する
  • 関ヶ原の戦いにおいては西軍に属し、大津城の攻略戦に加わっていた為に本戦には間に合わなかった
  • 関ヶ原の戦い後に改易となったが、再度幕府に取り立てられ大名となった

父母血縁

父母 祖父母 曾祖父母
立花宗茂 高橋紹運
(吉弘鎮理)
吉弘鑑理 吉弘氏直
_
大友義鑑娘 大友義鑑
_
宋雲院
(斎藤鎮実妹)
斎藤長実 _
_
_ _
_

年表( 立花宗茂 略歴 )

所在 出来事
1567 9 豊後 豊後国守護大名であった大友義鎮(後の宗麟)の重臣である吉弘鎮理(しげまさ、高橋紹運)の長男として出生する
1569 豊後 主君の大友義鎮(後の宗麟)の命により、父の吉弘鎮理が筑後高橋氏の名跡を継ぎ、岩屋城(いわや)と宝満(ほうまん)城の城主となる
名を高橋鎮種(たかはし しげたね)と改める
1576 豊後 主君の大友宗麟が嫡男の大友義統(よしむね)に豊後大友家の家督を譲る
1578 12 日向 耳川の戦い
(みみかわのたたかい)

主家の大友氏が日向国の高城川原において、島津義久率いる島津軍と戦うが敗退し多くの家臣を失う
伯父の吉弘鎮信が戦死する

1578 筑前 父の高橋鎮種が出家し、高橋紹運(じょううん)と号す
1578頃~ 筑前 大友氏が耳川の戦いに大敗したことにより、筑後の筑紫氏、肥前の龍造寺氏、筑前の秋月氏らの侵攻を受け、繰り返し戦いが起こる
筑前 元服し、高橋統虎(むねとら)と名乗る
1581 筑前 秋月氏、筑紫氏との戦いで初陣を果たす
1581 筑前 大友家の宿老である立花道雪の要請により、道雪の娘である誾千代(ぎんちよ)の婿養子となる
名を戸次統虎(べっき むねとら)に改める
1582 12 筑前 立花山城にて、名を立花統虎に改める
1584 筑後筑前 義父の立花道雪と実父の高橋紹運らが、沖田畷の戦いで島津氏に敗れた龍造寺氏の領土となっていた筑後へ侵攻し奪回する
統虎(宗茂)は立花山城の留守役を務める
1585 11 筑前 大友氏の重臣である義父の立花道雪が病死する
1586 5 主君の大友宗麟が大阪へ出向いて豊臣秀吉と謁見する
大友氏が豊臣氏の傘下に入り、島津氏の侵攻に対する軍事的支援を要請する
1586 9 筑前 岩屋城の戦い
(いわやじょうのたたかい)

島津義久の命により、島津忠長らが率いる2万を超える島津軍が筑前に侵攻する
実父の高橋紹運は岩屋城に籠城し徹底抗戦するが、討死し玉砕した

1586 筑前 立花山城の戦い
(たちばなやまじょうのたたかい)

岩屋城を攻略した島津軍が統虎(宗茂)が籠城する立花山城を包囲する
豊臣秀吉の援軍(毛利軍)が来るまでの時間を稼ぎ、島津軍は撤退した

1586 島津軍を追撃し、奪われていた岩屋城と宝満山城を奪還する
1586-1587 九州 豊臣秀吉の九州平定

九州北部まで侵攻していた島津氏を討伐するために豊臣秀吉が出兵した
統虎(宗茂)は豊臣軍の先鋒として活躍する

1587 8 豊臣秀吉から筑後国の柳川に8万石を与えられ、豊臣家の直臣となる
1587 8 肥後 佐々成政が治める肥後にて国人一揆が起こる
弟の高橋統増(むねます)と共に援軍として出陣する
1590 2-7 相模武蔵 小田原征伐
(おだわらせいばつ)

北条氏討伐のための豊臣秀吉軍が出陣する
統虎(宗茂)らも参陣する

1592頃 名を立花鎮虎(しげとら)に改める
1592頃 名を立花宗虎(むねとら)に改める
1592~1593 朝鮮 文禄の役
(ぶんろくのえき)

豊臣秀吉が明を征伐するため朝鮮に出兵する
宗虎(宗茂)は小早川隆景を主将とする六番隊に属し、明軍や朝鮮軍と朝鮮各地において交戦し戦功を立てた

1595頃 名を立花正成に改める
1595頃 名を立花親成に改める
1597~1598 朝鮮 慶長の役
(けいちょうのえき)

豊臣秀吉の命により、再度、朝鮮に出兵する
親成(宗茂)は固城倭城の守備を務めた
豊臣秀吉が伏見城にて死去し、日本軍の撤退時において奮戦し活躍した

1600 関ヶ原の戦いでは、石田三成らを中心とする西軍に属す
1600 10 近江 大津城の戦い
(おおつじょうのたたかい)

東軍の京極高次が籠城する大津城を毛利元康、小早川秀包らと攻める
城は攻略したが関ケ原本戦には間に合わず、大坂城を経由し自領の柳川へ引き揚げる

1600 11 筑後 自領の柳川に、東軍に組する黒田如水鍋島直茂加藤清正らが攻め込む
立花勢は奮戦したが、親成(宗茂)は柳川城を降伏し開城した
改易となり浪人となる
1600 名を立花政高に改める
1600 名を立花尚政に改める
1604 江戸 本多忠勝に推挙され、徳川家康により書院番頭に任じられ5,000石で江戸城に召し出される
江戸 徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)に任じられる
1606 陸奥国の棚倉に一万石を与えられ大名となる
1606頃 名を立花俊正に改める
1610頃 加増され三万石となる
名を立花宗茂に改める
1614 12 摂津 大坂冬の陣
(おおさかふゆのじん)

徳川家康が20万の軍勢を率いて豊臣秀頼の籠城する大阪城を包囲し攻撃する
宗茂も参陣し、大坂城北側の天満川方面に配された
大阪城の惣構(そうがまえ)等を埋めることを条件に和睦となる

1615 6 摂津 大坂夏の陣
(おおさかなつのじん)

豊臣方の再戦の準備を口実に徳川家康が再度出兵する
宗茂は徳川秀忠の本営に配された

1620 筑後 関ケ原の戦い以前の旧領であった筑後国の柳川10万9,200石を与えられる
1637-1638 肥前 島原の乱
(しまばらのらん)

肥前国の島原や肥後国の天草郡などでキリシタンの一揆が発生し、原城に篭城する
立花勢も討伐軍として参陣する

1643 1 江戸 江戸の藩邸で死去 享年76

※年月は西暦 

主君

  • 大友 義鎮(おおとも よししげ、宗麟)
    大友氏21代当主。北九州一帯を勢力下におき、九州探題に任じられるが島津氏との耳川の戦いに大敗し衰退を招いた。
  • 大友 義統(おおとも よしむね)
    大友氏22代当主、大友宗麟の嫡男。1593年、朝鮮出兵のおり小西行長を見捨てたかたちとなり、豊臣秀吉の逆鱗に触れ改易となった。
  • 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)1590~
    1585年、関白宣下。 1590年全国統一
  • 豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)1598~
    1593年出生、豊臣秀吉の子。
  • 徳川 家康(とくがわ いえやす)1604~
    三河松平氏出身、1603年征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。
  • 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)1605~
    徳川家康の三男、江戸幕府の第二代征夷大将軍。
  • 徳川 家光(とくがわ いえみつ)1623~
    徳川秀忠の嫡男、江戸幕府の第三代征夷大将軍。

著名子孫

  • 養子
    • 立花 忠茂(たちばな ただしげ)
      立花直次(実弟の高橋統増)の四男として出生したが、実子のいなかった宗茂の養子となった。筑後国の柳河藩第二代藩主。

一門

  • 高橋 統増(たかはし むねます、立花直次)
    高橋紹運の次男であったが、兄の高橋統虎(後の立花宗茂)が立花道雪の婿養子となっていた為、紹運死後、筑後高橋氏を継いだ。

家臣

  • 由布 惟信(ゆふ これのぶ)
    立花氏の家老。養父の立花道雪の代より仕えた。
  • 小野 鎮幸(おの しげゆき)
    立花氏の家老。養父の立花道雪の代より仕えた。関ヶ原の戦い後、宗茂が改易になると加藤清正に仕えた。
  • 薦野 増時(こもの ますとき)
    立花氏の家老。養父の立花道雪の代より仕えた。立花の姓を名乗ること許され、嫡男の立花成家は宗茂の姉を娶った。
  • 米多比 鎮久(ねたび しげひさ)
    立花氏の家老。養父の立花道雪の代より仕えた。関ヶ原の戦い後、宗茂が改易になると加藤清正に仕えた。柳川へ宗茂が大名に復帰すると呼び戻された。
タイトルとURLをコピーしました