生没年
- 1530~1587
出生
1530年(享禄3年)
死没
1587年6月28日(天正15年5月23日)
享年 58
名前(幼名、改名等)
- 塩法師丸(しおほうしまる、幼名)
- 大友 義鎮(おおとも よししげ)1539~
- 大友 宗麟(おおとも そうりん)1562~
- ドン・フランシスコ(洗礼名)1576~
大友宗麟 人物解説
- 豊後筑後守護である大友氏の出身
- 1550年に起きた二階崩れの変を経て家督を相続した
- 1551年、フランシスコ・ザビエルを豊後へ迎え、布教を許可する
- 九州六ヵ国(豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後)の守護職を務め大友氏の最盛期を築く
- 毛利氏、龍造寺氏、島津氏と九州の各地で戦う
- キリスト教に改宗し、洗礼を受ける
- 耳川の戦いで島津氏に敗れ衰退する
- 豊臣氏の傘下に入り支援を受け滅亡を免れる
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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大友宗麟 | 大友義鑑 | 大友義長 | 大友親治 |
木野親則娘 | |||
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大内義興娘 | 大内義興 | 大内政弘 | |
今小路 | |||
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年表( 大友宗麟 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1530 | 1 | 豊後 | 豊後国守護職である大友義鑑(よしあき)の嫡男として出生する |
1540 | 2 | 豊後 | 元服し、大友義鎮(よししげ)と名乗る |
1550 | 2 | 豊後 | 二階崩れの変 (にかいくずれのへん) 義鎮の廃嫡を謀った父の大友義鑑が義鎮派の家臣に斬られる |
1551 | 9 | 豊後 | 豊後に訪れたフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許可する |
1557 | 毛利元就が山口へ侵攻し、大内氏を滅ぼす 義鎮の実弟であり大内氏の当主であった大内義長が自害する |
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1559 | 室町幕府第13代将軍の足利義輝に、豊前国、筑前国の守護に任じられる 九州探題に任ぜられる |
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1561 | 豊前 | 門司城の戦い (もじじょうのたたかい) 毛利氏の門司城を攻めるが敗退する |
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1561 | 豊後 | 出家し、宗麟と号す | |
1569 | 筑前 | 多々良浜の戦い (たたらはまのたたかい) 筑前に進出してきた毛利元就の軍を撃退する |
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1570 | 9 | 肥前 | 今山の戦い (いまやまのたたかい) 龍造寺隆信を討伐するために大軍を送る |
1576 | 豊後 | 嫡男の義統(よしむね)に家督を譲る | |
1578 | 7 | 豊後 | キリスト教に改宗し、洗礼を受ける(洗礼名:ドン・フランシスコ) |
1578 | 日向 | 耳川の戦い (みみかわのたたかい) 日向に進出してきた島津義久率いる島津軍と戦うが敗退し、多くの家臣を失う |
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1585 | 11 | 筑前 | 重臣の立花道雪が病死する |
1586 | 筑前 | 岩屋城の戦い (いわやじょうのたたかい) 筑前に侵攻してきた島津氏に攻められ、家臣の高橋紹運が戦死する |
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1586 | 大阪 | 宗麟は自ら大坂に出向き、豊臣秀吉と大坂城において謁見する 豊臣氏の傘下に入り、軍事的支援を要請する |
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1587 | 1 | 豊後 | 戸次川の戦い (へつぎがわのたたかい) 援軍に来た豊臣軍と島津家久の軍が戦うが豊臣方が敗退する |
1587 | 6 | 豊後 | 病死 享年58 |
※年月は西暦
主君
- 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)1586~
著名子孫
- 子
- 大友 義統(おおとも よしむね)
嫡男、1576年に大友宗麟より家督を譲られ大友氏当主となる。1593年、文禄の役における不手際により改易となった。
- 大友 義統(おおとも よしむね)
著名家臣
- 戸次 鑑連(べっき あきつら、立花道雪)
- 臼杵 鑑速(うすき あきすみ)
- 吉弘 鑑理(よしひろ あきまさ)
- 吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ、高橋紹運)
- 高橋 統虎(たかはし むねとら、立花宗茂)