島津家久

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生没年

  • 1547~1587

名前

  • 島津 又七郎(しまづ またしちろう、幼名)
  • 島津 家久 (しまづ いえひさ)

島津家久 人物解説

  • 島津氏第16代当主である島津義久の弟
  • 1575年に上洛した際に織田家の家臣であった明智光秀の接待を受け、その記録を「家久君上京日記」に残している
  • 家久が率いる島津軍と有馬晴信の連合軍で、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)において龍造寺軍を打ち破り、龍造寺隆信を討ち取る(1584年)
  • 戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)において、侵攻してきた仙谷秀久が率いる豊臣軍を破り、長宗我部信親や十河存保を討ち取る(1587年)
  • 豊臣秀長に降伏後、日向国の佐土原城にて急死

父母血縁

父母祖父母曾祖父母
島津家久島津貴久島津忠良島津善久
新納是久娘
島津成久娘島津成久
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本田親安娘本田親安_
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年表( 島津家久 略歴 )

所在出来事
1547薩摩分家出身であったが薩摩島津氏の第15代当主となっていた島津貴久(しまづ たかひさ)の四男として出生
1561薩摩大隅の肝付(きもつき)氏との合戦で初陣を飾る
1566薩摩父の貴久が隠居し、家督を兄の島津義久が相続する
15695薩摩相良(さがら)氏、菱刈(ひしかり)氏が籠城する大口城から、城兵を誘いだし伏兵を用いて勝利する
1570薩摩島津氏が薩摩国を平定する
1570薩摩薩摩国の串木野(くしきの)の領主となり、串木野城を居城とする
15707薩摩嫡男の豊寿丸(後の島津豊久)が生まれる
1574大隅島津氏が大隅国を平定する
15754~8薩摩



伊勢
当主である兄の義久より暇の許可を取り、伊勢神宮に参詣(さんけい)する
途中、京に上洛し石山本願寺攻めの帰途で行軍中であった織田信長を目撃する
明智光秀に接待を受け坂本城を見学し、光秀と共に舟にのり酒を飲む
この旅の道中録として「家久君上京日記」(いえひさぎみじょうきょうにっき)を残した
1577日向島津氏によって、日向国の諸城が調略および攻略される
日向の伊東氏が豊後の大友氏のもとへ逃れる
157811日向耳川の戦い(みみかわのたたかい)
日向を奪回するために出陣してきた大友宗麟の軍を島津軍が壊滅させる
家久は新納院高城(にいろいんたかじょう)を山田有信と共に守る
日向日向国の佐土原(さどわら)城の城主になる
15845肥前沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)
有馬氏討伐のため、肥前島原半島に進出してきた龍造寺軍を有馬島津連合軍が破る
家久は釣り野伏せの戦法により侵攻してきた龍造寺軍を敗走させ、敵の総大将であった龍造寺隆信を討ち取る
(釣り野伏せとは、おとり部隊が伏兵がいる地点に敵部隊を誘導し包囲殲滅する戦法)
15871豊後戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)
大友氏の援軍に来た豊臣軍に勝利する
長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)、十河存保(そごう まさやす)らを討ち取る
15875日向根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)
九州の東岸より侵攻してきた豊臣秀長の軍に決戦を仕掛けるが敗れ退却する
1587日向佐土原城が豊臣勢に包囲され、豊臣秀長に降伏する
15877日向佐土原(さどわら)城にて急死 享年41

※年月は西暦 

著名子孫、一門

    • 島津 豊久(しまづ とよひさ)
      嫡男、関ヶ原の戦いでは、兄義弘の配下にあり退却時に討死した
    • 島津 忠仍(しまづ ただなお)
      次男、東郷氏の養子となったが、後に復姓した
  • 一門
    • 島津 義久(しまづ よしひさ)
      兄、薩摩国守護大名の島津氏第16代当主
    • 島津 義弘(しまづ よしひろ)
      兄、武勇に優れ、義久を補佐し合戦では自ら前線に立つことが多かった
    • 島津 歳久(しまづ としひさ)
      兄、梅北一揆により秀吉の怒りを買い自害させられる
    • 島津 忠恒(しまづ ただつね)
      甥、義弘の次男 後に家久と改名 初代薩摩藩主

主君

  • 主君
    • 島津 貴久(しまづ たかひさ)
      父、島津氏第15代当主
    • 島津 義久(しまづ よしひさ)1566~
      兄、島津氏第16代当主
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