豊臣秀次

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生没年

  • 1568~1595

    出生
    1568年

    死没
    1595年8月20日(文禄4年7月15日)

享年 28

名前

  • 木下 万丸(きのした よろずまる)
  • 宮部 吉継(みやべ よしつぐ)
  • 三好 信吉(みよし のぶよし)
  • 羽柴 信吉(はしば のぶよし)
  • 羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)
  • 豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)1586~

豊臣秀次 人物解説

  • 豊臣秀吉の姉である智(とも、瑞竜院日秀)の長男
  • 1591年、豊臣秀吉の後を継ぎ、関白に就任した
  • 1595年、謀反の疑いにより切腹

父母血縁

父母 祖父母 曾祖父母
豊臣秀次 三好吉房 _ _
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智(瑞竜院日秀) 木下弥右衛門 _
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仲(天瑞院) _
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年表( 豊臣秀次 略歴 )

所在 出来事
1568 _ 尾張 尾張国にて秀吉の姉である智(とも)の長男として出生する
1572頃 近江 浅井氏の家臣であった宮部 継潤(みやべ けいじゅん)の養子となる
宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗る
三好 康長(みよし やすなが)の養子となる
三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗る
1584 3~11 尾張美濃 小牧長久手の戦い
(こまきながくてのたたかい)

織田信雄、徳川家康と戦うが池田恒興、森長可らを討ち取られる
信吉(秀次)の部隊は長久手の戦いにおいて敗退した

1584 羽柴 信吉(はしば のぶよし)と名乗る
1585 3~4 紀伊 紀州攻め
(きしゅうぜめ)

秀吉が敵対していた紀伊根来衆の征伐を行う
信吉(秀次)は副将を務めた

1585 四国 四国平定
(しこくへいてい)

叔父の羽柴秀長が総大将として長宗我部元親と戦う
阿波の諸城を攻略し、長宗我部元親を降伏させた
信吉(秀次)は副将を務めた

1585 8 叔父の羽柴秀吉が近衛前久(このえ さきひさ)の猶子(ゆうし)となり、藤原秀吉と改名する
秀吉が関白宣下を受ける
1585 9 近江 近江八幡43万石を与えられる
八幡山城を築く
1586 9 叔父の豊臣秀吉が正親町(おおぎまち)天皇から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と改名する
羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)に改名する
1587 1 豊臣の姓を賜り、豊臣秀次と改名する
1590 相模 小田原征伐
(おだわらせいばつ)

関東の一大勢力であった北条氏を攻め降伏させる
秀次は豊臣方の副将を務めた

1592 2 叔父の豊臣秀吉が秀次に関白を継承させる
1593 8 摂津 大坂城にて秀次の従兄弟となる拾丸(豊臣秀頼)が誕生する
1595 8 紀伊 秀吉より謀反の嫌疑を掛けられ、高野山にて切腹 享年28

※年月は西暦 

著名子孫 一門

    • 隆清院(りゅうせいいん)
      ? ~ ? 豊臣秀次の子。秀次の妻子らの処刑から逃れられ、後に真田信繁(幸村)の側室となった。
    • 顕性院(けんしょういん)
      1604 ~ 1635 真田信繁(幸村)と豊臣秀次の娘である隆清院との子。後に出羽亀田藩第2代藩主となる岩城宣隆の側室となった。
    • 三好 幸信(みよし ゆきのぶ)
      1615 ~ 1667 真田信繁(幸村)と豊臣秀次の娘である隆清院との子。大坂夏の陣後に生まれ、後に姉の嫁ぎ先である出羽亀田藩士となった。
  • 一門
    • 豊臣 秀勝(とよとみ ひでかつ)
      1569 ~ 1592 秀次の弟であり、豊臣秀吉の甥、秀吉の姉日秀の次男。1592年、朝鮮出兵(文禄の役)の陣中において病死した。
    • 豊臣 秀保(とよとみ ひでやす)
      1579 ~ 1595 秀次の弟であり、豊臣秀吉の甥、秀吉の姉日秀の三男。豊臣秀長の婿養子となるが1595年に急死した。

主君

  • 豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
    秀次の叔父。1585年に関白宣下を受け、1590年に全国統一した。

著名家臣

  • 田中 吉政(たなか よしまさ)
    1548 ~ 1609 秀次の宿老。豊臣政権下では、三河国岡崎城主を務めた。関ケ原の合戦では東軍に属し、石田三成を捕縛する功を挙げた。筑後一国32万5千石、柳川藩初代藩主。
  • 堀尾 吉晴(ほりお よしはる)
    1543 ~ 1611 秀次の宿老。豊臣政権下では、遠江国浜松城主を務めた。関ケ原の合戦では東軍に属した。
  • 中村 一氏(なかむら かずうじ)
    ? ~ 1600 秀次の宿老。豊臣政権下では、近江国水口岡山城主を務めた。関ケ原の合戦では東軍に属したが、合戦直前に病死した。
  • 山内 一豊(やまうち かずとよ)
    1545 ~ 1605 秀次の宿老。豊臣政権下では、近江国長浜城主、後に遠江国掛川城主を務めた。関ケ原の合戦では東軍に属した。土佐藩初代藩主。
  • 一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)
    1553 ~ 1590 秀次の宿老。小田原征伐時の伊豆国山中城攻めにおいて戦死した。
  • 前野 長康(まえの ながやす)
    1528 ~ 1595 秀吉の重臣であったが秀次の後見人となった。秀次に連座し自害した。
  • 木村 重茲(きむら しげこれ)
    ? ~ 1595 秀次の家老。秀次に連座し自害した。
  • 服部 一忠(はっとり かずただ)
    ? ~ 1595 織田信長に馬廻として仕え、桶狭間の戦いでは今川義元に一番槍をつける功を挙げた。本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え秀次の家老を務めたが連座し自害した。
  • 羽田 正親(はねだ まさちか)
    ? ~ 1595 豊臣秀長の家老であった。その後、秀次の家老を務めたが連座し自害した。
  • 前野 景定(まえの かげさだ)
    1566 ~ 1595 前野長康の子。秀次の家老であったが連座し自害した。
  • 前野 忠康(まえの ただやす)
    1560 ~ 1600 妻は前野長康の娘。秀次に仕えたが、後に石田三成に仕えた。関ヶ原の戦いにて戦死した。
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