豊臣秀頼

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生没年

  • 1593~1615

    出生
    1593年8月29日(文禄2年8月3日)

    死没
    1615年6月4日(慶長20年5月8日)

享年 23

名前

  • 豊臣 拾丸(とよとみ ひろいまる)
  • 豊臣 秀頼(とよとみ ひでより)1596~

豊臣秀頼 人物解説

  • 豊臣秀吉の三男
  • 豊臣秀吉と側室で織田信長の姪である淀殿との子
  • 1615年、大坂夏の陣にて徳川方に敗れ自害した

父母血縁

父母 祖父母 曾祖父母
豊臣秀頼 豊臣秀吉 木下弥右衛門 _
_
仲(天瑞院) _
_
淀殿 浅井長政 浅井久政
小野殿
お市の方 織田信秀
土田御前

年表( 豊臣秀頼 略歴 )

所在 出来事
1593 8 摂津 大坂城にて、豊臣秀吉の三男として出生する
1595 8 豊臣秀吉より謀反の嫌疑を掛けられた従兄弟で関白であった豊臣秀次が高野山にて切腹となる
秀次の妻子らも処刑された
1596 6 父の豊臣秀吉とともに参内(宮中の内裏に参上すること)する
豊臣朝臣藤吉郎秀頼と称す
1598 9 山城 父の豊臣秀吉が伏見城にて死去する
1599 1 摂津 父の豊臣秀吉の遺言により居城を伏見城から大坂城に移す
1600 10 関ヶ原の戦い
(せきがはらのたたかい)

徳川家康率いる東軍が石田三成らを中心とする西軍を撃破する
秀頼は西軍の総大将であった毛利輝元と共に大坂城に在った

1603 摂津 徳川秀忠の娘であり、従兄妹の千姫と結婚する
1614 7-10 方広寺鐘銘事件
(ほうこうじしょうめいじけん)

京にある方広寺梵鐘の銘文について問題が生じた
重臣の片桐且元が大坂城より退去した

1614 12 摂津 大坂冬の陣
(おおさかふゆのじん)

徳川家康が20万の軍勢を率いて豊臣秀頼の籠城する大阪城を包囲し攻撃する
大阪城の惣構(そうがまえ)等を埋めることを条件に和睦となる

1615 6 摂津 大坂夏の陣
(おおさかなつのじん)

豊臣方の再戦の準備を口実に徳川家康が再度出兵する
秀頼は大阪城の本丸の北側にある山里丸(やまざとまる)にて母親の淀殿らと自害した 享年23

※年月は西暦 

著名子孫 一門

    • 豊臣 国松(とよとみ くにまつ)
      1608 ~ 1615 豊臣秀頼と側室との子。大坂夏の陣後、京に逃れるが捕えられ処刑された。

著名家臣

  • 片桐 且元(かたぎり かつもと)
    1556 ~ 1615 豊臣家重臣。賤ヶ岳の七本槍の一人。方広寺鐘銘事件の対応により裏切りを疑われ、大坂城より退去した。
  • 大野 治長(おおの はるなが)
    1569 ~ 1615 母が淀殿の乳母(大蔵卿局)であり、秀頼の側近として活躍した。大坂夏の陣おいては岡山口の戦いで奮戦したが、秀頼らと共に自害した。
  • 木村 重成(きむら しげなり)
    ? ~ 1615 幼少の頃より秀頼の小姓として仕え、その後、側近となった。大坂夏の陣における八尾若江の戦いにて戦死した。

大坂の陣五人衆

  • 長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)
    1575 ~ 1615 長宗我部元親の四男、土佐国大名の長宗我部氏第22代当主。関ケ原の戦いにて西軍側に属し改易となった。大坂の陣では豊臣方の主力として活躍したが大坂城落城後、京にて捕縛され処刑された。。
  • 明石 全登(あかし てるずみ)
    ? ~ 1615 宇喜多家の家臣。大坂夏の陣における道明寺の戦いでは奮戦した。大坂城落城後は消息不明となった。
  • 真田 信繁(さなだ のぶしげ、幸村)
    1567 ~ 1615 真田昌幸の次男。大坂冬の陣では真田丸を造って奮戦し、徳川軍を撃退した。大坂夏の陣における天王寺の戦いでは、徳川軍本陣に突撃し徳川家康を追い詰めたが戦死した。
  • 毛利 勝永(もうり かつなが)
    1578 ~ 1615 毛利勝信の子。大坂夏の陣における天王寺の戦いでは、本多忠勝の次男である本多忠朝らを討ち取った。豊臣秀頼の介錯を務めた後に自刃した。
  • 後藤 基次(ごとう もとつぐ、又兵衛)
    1560 ~ 1615 黒田家の家臣であったが1606年に出奔した。大坂夏の陣における道明寺の戦いにて討死した。
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