生没年
- 1494?~1556
出生
1494?年 (明応3?年)
死没
1556年5月28日(弘治2年4月20日)
享年 63?
名前
- 長井 規秀(ながい のりひで) 1533~
- 斎藤 利政(さいとう としまさ)1538~
- 斎藤 道三(さいとう どうさん)1554~
斎藤道三 人物解説
- 油商人として成功しその後武士になる
- 1533年(天文2年)以前は、父である長井新左衛門尉の経歴と混在している可能性がある(六角承禎書写より)
- 謀略を駆使し、美濃の戦国大名にまで成り上がる
- 娘の帰蝶(きちょう、濃姫)は織田信長に嫁いだ
- 1555年、長良川の戦いにて長男の斎藤義龍に敗れ戦死した
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
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斎藤道三 | 長井新左衛門尉 (松波庄五郎) |
松波左近将監基宗 | ‐ |
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年表( 斎藤道三 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
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1494? | 山城? | 出生 | |
京 | 妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となる | ||
美濃 | 妙覚寺の末寺である常在寺へ赴く | ||
美濃 | 僧より還俗する 油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとる 油売りの行商人として成功しその後武士となる |
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美濃 | 常在寺の日運(日護房)の縁故を頼り、美濃守護 土岐氏小守護代である長井長弘の家臣となる | ||
美濃 | 長井氏家臣である西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称す | ||
1527 | 美濃 | 土岐氏の家督争いで土岐頼芸(とき よりのり)の守護就任に貢献する | |
1533 | 2 | 美濃 | 土岐頼芸に敵対する土岐頼武と内通した罪で長井長弘を殺害する 長井規秀に改名する |
1538 | 美濃 | 美濃守護代の名跡を継ぎ斎藤利政と名乗る | |
1539 | 美濃 | 居城である稲葉山城の改築を行う | |
1541 | 美濃 | 美濃守護 土岐頼芸の弟である土岐頼満を毒殺する | |
1542 | 美濃 | 土岐頼芸を追放し、美濃の実質的な国主となる | |
1544? | 美濃 | 加納口の戦い(かのうぐちのたたかい) 土岐氏を支援した織田信秀、朝倉孝景の軍に攻め込まれるが撃退する |
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1548 | 美濃 | 娘の帰蝶(きちょう)を織田信長に嫁がせる | |
1553 | 尾張 | 正徳寺で娘婿の織田信長と会見する | |
1554 | 美濃 | 家督を嫡男の斎藤義龍に譲る 仏門に入り道三と号す |
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1555 | 12 | 美濃 | 寵愛していた二男の斎藤孫四郎と三男の斎藤喜平次が、義龍に謀殺される |
1556 | 4 | 美濃 | 長良川の戦い(ながらがわのたたかい) 不和となった義龍と長良川で戦うが敗れ、討死 享年63? |
※1533年(天文2年)以前は、父である長井新左衛門尉の経歴と混在の可能性あり
※年月は西暦
主君
- 主君
- 長井 長弘(ながい ながひろ)
美濃守護土岐氏の家臣で小守護代を務めた - 土岐 頼芸(とき よりのり)1533頃~1542
美濃の守護大名。兄の土岐頼武や甥の土岐頼純と美濃守護の座を巡って争う。1542年に道三に追放された。
- 長井 長弘(ながい ながひろ)
著名子孫
- 子
- 斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
嫡男、長良川の戦いで道三と戦い敗死させた - 斎藤 孫四郎(さいとう まごしろう)
二男、義龍に謀殺された - 斎藤 喜平次(さいとう きへいじ)
三男、義龍に謀殺された - 帰蝶(きちょう)
濃姫、織田信長の正室 - 斎藤 利治(さいとう としはる)
長良川の戦い後、信長配下となった。信長の嫡男である織田信忠の側近となるが、本能寺の変により二条御新造において信忠とともに討死した。
- 斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
- 孫
- 斎藤 龍興 (さいとう たつおき)
義龍の嫡男。義龍の死により美濃斎藤氏の家督を継ぐが、信長に侵攻され斎藤氏は滅亡する。
- 斎藤 龍興 (さいとう たつおき)