生没年
- 1521~1573
1521年12月1日(大永元年11月3日)出生
1573年5月13日(元亀4年4月12日)死没
享年 53
名前
- 太郎 (たろう、幼名)
- 武田 晴信(たけだ はるのぶ)1536年~
- 武田 信玄(たけだ しんげん)1559頃~
※ 徳栄軒信玄
(号、とくえいけんしんげん)
武田信玄 人物解説
- 甲斐守護職である甲斐源氏嫡流の武田氏第16代当主
- 父の武田信虎を駿河に追放し、家督を相続
- 甲斐から信濃、駿河、上野、遠江に進出
- 上杉謙信と北信濃を巡り川中島で戦う
- 三方ヶ原の戦いにて徳川家康を敗走させる
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
---|---|---|---|
武田信玄 | 武田信虎 | 武田信縄 | 武田信昌 |
跡部明海娘 | |||
岩下氏 | _ | ||
_ | |||
大井の方 | 大井信達 | 大井信包 | |
_ | |||
_ | _ | ||
_ |
年表( 武田信玄 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
---|---|---|---|
1521 | 12 | 甲斐 | 甲斐国守護 武田信虎の嫡男として生まれる |
1536 | 甲斐 | 元服し、武田晴信(はるのぶ)と名乗る | |
1536 | 信濃 | 武田信虎が信濃佐久郡に出陣し、晴信が初陣を飾る | |
1541 | 7 | 甲斐 | 父信虎の甲斐追放 娘婿である今川義元に会いに駿河へ赴いた父信虎を、譜代家臣の板垣信方(いたがき のぶかた)、甘利虎泰(あまり とらやす)ら譜代家臣と共に国境を封鎖し追放する 晴信が武田家の家督と甲斐守護職を相続する |
1542 | 信濃 | 信濃へ侵攻する | |
1542 | 7-8 | 信濃 | 桑原城の戦い (くわばらじょうのたたかい) 信濃諏訪郡に侵攻し、諏訪頼重を降伏させ自害させる |
1544-1545 | 信濃 | 高遠合戦 (たかとおかっせん) 信濃伊那郡の高遠頼継を破り臣従させる |
|
1547 | 甲斐 | 甲州法度を定める | |
1548 | 3 | 信濃 | 上田原の戦い (うえだはらのたたかい) 北信濃の村上義清に敗北し、重臣の板垣信方、甘利虎泰らが討ち取られる |
1548 | 8 | 信濃 | 塩尻峠の戦い (しおじりとうげのたたかい) 信濃守護の小笠原長時軍を朝方に奇襲し破る |
1550 | 信濃 | 砥石崩れ (といしくずれ) 村上方の砥石城を攻めるが落とせず、救援に来た村上義清の軍に挟撃され大敗する 家臣の横田高松(よこた たかとし)が討死する |
|
1551 | 信濃 | 家臣の信濃先方衆(さきてしゅう、他国衆)の真田幸隆(真田昌幸の父)による調略により、砥石城を攻略する | |
1553 | 信濃 | 北信濃の村上義清が居城の葛尾城(かつらおじょう)を放棄し、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に落ち延びる | |
1553 | 10 | 信濃 | 第1次川中島の戦い (かわなかじまのたたかい) 北信濃をめぐり長尾景虎(上杉謙信)が出陣し、武田軍の先鋒を破る 決戦は避けられ、互いに引き揚げる |
1554 | 甲相駿三国同盟 (こうそうすんさんごくどうめい) 甲斐の武田晴信、相模の北条氏康、駿河の今川義元が互いに婚姻関係を結び、三国同盟が成立する |
||
1555 | -11 | 信濃 | 第2次川中島の戦い 長尾景虎が出陣し、川中島において犀川(さいがわ)を挟んで200日余におよび対陣する 今川義元の仲介で和睦が成立し、互いに引き揚げる |
1557 | 信濃 | 第3次川中島の戦い 決戦は行われず、将軍 足利義輝の仲介により和睦する |
|
1561 | 8 | 信濃 | 第4次川中島の戦い 八幡原(はちまんばら)において、上杉謙信軍と決戦が行われる 弟の武田信繁、山本勘助らが討死し、信玄も負傷する |
1564 | 信濃 | 第5次川中島の戦い 信濃の塩崎城において上杉方と退陣するが、決戦は避けられた |
|
1567 | 10 | 甲斐 | 謀反にかかわった嫡男の武田義信が死去する |
1568 | 12 | 駿河 | 徳川家康と協調して駿河に侵攻する |
1569 | 11 | 相模 | 三増峠の戦い (みませとうげのたたかい) 甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康の軍が戦う |
1572 | 10 | 三河遠江 | 西上作戦 (せいじょうさくせん) 武田信玄が総勢3万の兵で徳川領へ侵攻 |
1573 | 1 | 遠江 | 三方ヶ原の戦い (みかたがはらのたたかい) 浜松城の北方にある三方ヶ原にて徳川軍を撃破し、徳川家康を敗走させる |
1573 | 4 | 信濃 | 持病が悪化し甲斐へ撤退中に死去 享年53 |
著名子孫
- 子
- 武田 義信(たけだ よしのぶ)
嫡男、妻は今川義元の娘である嶺松院(れいしょういん) 1565年、信玄への謀反の疑いにより幽閉される 1567年、自害 - 海野 信親(うんの のぶちか、武田 竜芳)
次男、盲目であった 信濃小県郡(ちいさがたぐん)の国衆である海野幸義の娘を正室とし、海野氏の名跡を継承した 1582年、武田家滅亡時に死去 - 武田 信之(たけだ のぶゆき)
三男、1553年に11歳で死去 - 武田 勝頼(たけだ かつより)
四男、1573年、信玄の死去により家督を相続する 1575年、長篠の戦いにおいて織田徳川連合軍に敗退した 1582年、織田信長の甲州征伐により、天目山の戦いにて自害し武田家は滅亡する - 仁科 盛信(にしな もりのぶ)
五男、1561年に信濃安曇郡(あづみぐん)仁科氏の名跡を継承する 1582年、織田軍の甲州征伐により高遠城に籠城するが討死した - 葛山 信貞(かつらやま のぶさだ)
六男、駿河東部の国衆である葛山氏の名跡を継承する 1582年、織田軍の甲州征伐により甲府の甲斐善光寺において自害した - 武田 信清(たけだ のぶきよ)
七男、甲斐源氏の一族である安田氏の名跡を継承する 1582年、織田軍の甲州征伐においては高野山に逃れた その後、上杉景勝の正室となっていた異母姉の菊姫を頼り、米沢藩上杉家の家臣となった
- 武田 義信(たけだ よしのぶ)
- 孫
- 武田 信勝(たけだ のぶかつ)
勝頼の嫡男 1582年の甲州征伐において、勝頼とともに天目山の戦いにて自害した
- 武田 信勝(たけだ のぶかつ)
一門衆
- 武田 信繁(たけだ のぶしげ)
弟、武田信虎の四男 信玄の副将格として活躍したが、1561年の第4次川中島の戦いで討死した - 武田 信廉(たけだ のぶかど)
弟、武田信虎の六男 1582年の甲州征伐において織田軍に殺害された - 一条 信龍(いちじょう のぶたつ)
弟、武田信虎の八男 武田氏の一族である一条氏の名跡を継承する 1582年の甲州征伐において徳川軍に居城を包囲され討死した - 武田 信豊(たけだ のぶとよ)
武田信繁の次男 織田信長の甲州征伐により信濃に逃れるが自害した - 穴山 信君(あなやま のぶただ、梅雪)
信玄の次女である見性院(けんしょういん)を娶るが、織田信長の甲州征伐では織田方に内応した。徳川家康の伊賀越え時に、一揆に襲撃され死去
著名家臣
- 馬場 信春(ばば のぶはる)
武田四天王の一人、信濃の深志城代 譜代の重臣として活躍したが、長篠の戦いにおいて殿(しんがり)を務め討死した - 内藤 昌豊(ないとう まさとよ)
武田四天王の一人、上野の箕輪城代を務め重臣として活躍したが、長篠の戦いにおいて討死した - 山県 昌景(やまがた まさかげ)
武田四天王の一人、親族である飯富虎昌(おぶ とらまさ)の赤備えを引継ぎ重臣として活躍したが、長篠の戦いにおいて討死した - 春日 虎綱(かすが とらつな、高坂昌信)
武田四天王の一人、信濃の海津城代を務め、越後の上杉氏に対する抑えとして活躍した - 山本 勘助(やまもと かんすけ)
築城に長け軍略にも通じていたが、第四次川中島の戦いにて討死した - 真田 幸隆(さなだ ゆきたか、幸綱)
信濃の先方(さきて)衆として調略などで活躍した 真田昌幸の父