生没年
- 1535 ~ 1619
出生
1535年8月21日(天文4年7月23日)
死没
1619年8月30日(元和5年7月21日)
享年 85
名前
- 島津 忠平(しまづ ただひら)
1546~ - 島津 義珍(しまづ よしたか)
1586~ - 島津 義弘(しまづ よしひろ)
1587~ - 島津 惟新斎(しまづ いしんさい)
1599~
島津義弘 人物解説
- 島津氏第16代当主である島津義久の弟
- 薩摩藩初代藩主である島津忠恒の父
- 島津家当主である兄の島津義久を補佐し、合戦では自ら前線に立つことが多かった
- 釣り野伏せの戦法により侵攻してきた伊東氏に勝利した(木崎原の戦い)
- 耳川の戦いに主力として参加し、大友宗麟の軍に大勝する
- 根白坂の戦いで奮闘するが豊臣秀吉の軍に敗退した
- 文禄・慶長の役に参陣し、活躍した
- 関ヶ原の戦いでは西軍が瓦解する中、敵中を突破し退却した
父母血縁
父母 | 祖父母 | 曾祖父母 | |
---|---|---|---|
島津義弘 | 島津貴久 | 島津忠良 | 島津善久 |
新納是久娘 | |||
島津成久娘 | 島津成久 | ||
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入来院重聡娘 | 入来院重聡 | 入来院重豊 | |
北原貴兼娘 | |||
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年表( 島津義弘 略歴 )
年 | 月 | 所在 | 出来事 |
---|---|---|---|
1535 | 8 | 薩摩 | 薩摩島津氏の分家出身である島津貴久(しまづ たかひさ)の次男として出生する |
1539 | 薩摩 | 島津本宗家の家督を相続していた父の島津貴久が祖父の島津忠良(しまづ ただよし)とともに薩摩を平定する | |
1546 | 薩摩 | 11歳で元服し、島津忠平(ただひら)と名乗る | |
1554 | 薩摩 | 岩剣城(いわつるぎじょう)における国人衆との戦いで初陣を果たす | |
1566 | 薩摩 | 父の島津貴久が隠居し家督を兄の島津義久が相続する | |
1572 | 6 | 日向 | 木崎原の戦い (きざきばるのたたかい) 釣り野伏せの戦法により侵攻してきた伊東氏に勝利する |
1577 | 日向 | 日向の諸城を攻略し、伊東氏を追放する | |
1578 | 11 | 日向 | 耳川の戦い (みみかわのたたかい) 日向を奪回するために出陣してきた大友宗麟の軍を壊滅させる |
1585~1586 | 肥後 | 阿蘇氏を攻略し肥後を制圧する | |
1587 | 5 | 日向 | 根白坂の戦い (ねじろざかのたたかい) 九州の東岸より侵攻してきた豊臣秀長の軍と戦うが敗れ退却する |
1587 | 6 | 薩摩 | 島津氏が秀吉に降伏する 大隅一国を安堵される |
1592~1593 | 朝鮮 | 文禄の役 (ぶんろくのえき) 国元の一揆により遅参するが、四番隊として参陣する |
|
1597~1598 | 朝鮮 | 慶長の役 (けいちょうのえき) 泗川(しせん)の戦いにて戦力的劣勢でありながら、明・朝鮮連合軍に勝利する |
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1600 | 10 | 美濃 | 関ヶ原の戦い (せきがはらのたたかい) 西軍に属すが劣勢となり東軍に包囲される |
1600 | 11 | 薩摩 | 徳川家康が島津氏討伐を九州の全大名に命じる 家康に謝罪の使者を送り桜島に蟄居(謹慎)する 島津氏の討伐は中止となる |
1602 | 3 | 徳川家康に所領を安堵される | |
1619 | 8 | 大隅 | 加治木(かじき)館にて死去 享年85 |
主君
- 島津 貴久(しまづ たかひさ)
父、島津氏第15代当主 - 島津 義久(しまづ よしひさ)
兄、島津氏第16代当主
著名子孫
- 子
- 島津 久保(しまづ ひさやす)
次男、文禄の役出兵中に病死 - 島津 忠恒(しまづ ただつね)
三男、後に家久と改名 初代薩摩藩主
- 島津 久保(しまづ ひさやす)
- 孫
- 島津 光久(しまづ みつひさ)
島津忠恒の次男、第二代薩摩藩主
- 島津 光久(しまづ みつひさ)
一門衆
- 島津 義久(しまづ よしひさ)
兄、薩摩国守護大名の島津氏第16代当主 - 島津 歳久(しまづ としひさ)
弟、梅北一揆により秀吉の怒りを買い自害させられる - 島津 家久(しまづ いえひさ)
弟、沖田畷の戦いでは龍造寺隆信を敗死させる。戸次川の戦いでは仙石秀久が率いる豊臣軍に大勝する。 - 島津 豊久(しまづ とよひさ)
甥、弟島津家久の子 関ヶ原の戦いの退却時に討死した
著名家臣
- 長寿院 盛淳(ちょうじゅいん もりあつ)
- 中馬 重方(ちゅうまん しげかた)
- 押川 公近(おしかわ きみちか)
- 矢野 兼雲(やの けんうん)